或る二世経営者のホームページ ~香山廣紀 かく挑み、かく歩む。~

香山草紙 小説集


椎名町にて候 ~おき去りにした青春~ 北見俊介 著

第一章 その1

ドンドンドン、と戸を叩く音がした。僕は手を休め、
「はぁい。」
と言って戸を開けると、ひとつとなりの部屋の原田さんが立っていた。
「お前達、学生だろう。学生なら学生らしく勉強しろ。毎晩毎晩、じゃらじゃら、じゃらじゃら、麻雀ばっかりしやがって。いい加減にしろ、一体何時だと思っているんだ。隣近所の迷惑を考えろ。」
と、すごい剣幕で戸をピシャリと閉めた。僕達は少しやり過ぎかな、とは思っていたが、しばし呆然とした。でもそれくらいのことで誰一人として、止めようと 言う者はいなかった。藤沢からわざわざ来ている吉田や、途中下車の常習犯の熊沢(桜台に住んでいる)は勿論、このためにだけ近所に引っ越してきた大阪弁の 猪山、そして僕。唯、一緒に住んでいる僕の従兄弟の浩一だけは、やや消極的だった。時計を見るとまだ一時頃だったし、半荘の勝負さえついていない。人間い よいよ困ると知恵が出るものである。大阪弁の猪山が、
「おい、毛布あるんちゃうん。」
と言った。すると熊沢が、
「あったまいい。」
と、大声で続く。従兄弟の浩一が眉間に皺を寄せて
「シッー」
と、口に人差し指を当てた。押し入れから毛布を取り出して、ホームゴタツの台の上に敷き、その上にパイを並べてすることにした。少々不安定だが今止めるよりは天国である。ほとんど音はしない。吉田が、
「それ当たり、ロン、ロンだよ。でかいぞ。」
当たられた猪山が、
「ギャー」
と叫んで、後ろに倒れた瞬間、襖が破れ大騒ぎになった。浩一が、[シッー]と言い、全員が[シッー][シッー]の大合唱になり、何がシッーだか分からなくなった。
ここで、僕達が同棲している[桜荘]の住人を紹介することにする。2階は全部で5室あり、隣の202号室(僕達は201号室)は、美人の姉妹がいて、姉は 何処かのOLらしく、妹はお嬢様学校で有名な跡見学園の女子大生である。その隣の203号室は、今叱られた原田さん夫婦が住んでおり、奥さんは何処かの パートで働いており、原田さん自身は所謂売れない作家であるらしい。向かいの205号室は、浪人が一人で受験勉強をしているらしく、その隣は男性のサラ リーマンがいるみたい。1階は大衆食堂になっており、田中さんと云う人の好いおじさんがやっていて、僕達の食料源になっている。と云うのは僕達は、月当た り壱万円をその田中さんに支払い、食べたい時に食べさせてもらうと云う契約をしていた。
そろそろ目標の午前5時になる。切りの良いところで僕達は麻雀を止めて清算をする。合計20半荘をしていた。僕はプラス千二百円、従兄弟の浩一がマイナス 三百円、大阪弁の猪山がマイナス二千五百円、吉田がプラス二千百円、熊沢がマイナス四百円。僕達は西武池袋線始発電車に乗った。次の行動、早朝ボーリング のスタートである。5ゲームずつやり、吉田は藤沢へ帰り、熊沢は今度は途中下車をしないで桜台に帰り、猪山は自分のこ汚い4.5帖のアパートへ帰り、僕と 浩一は桜荘へと落ち着いた。僕がうとうとしていると、何か物音がするので起きてみると、浩一が歯を磨いたり、顔を洗ったりしている。
「どうしたの?」
と、聞くと今から授業に出るのだと言う。まさしく気違い沙汰であると思いながら、僕は深い眠りに誘われていった。
いくばくかの時間が経ったであろうか、空腹も手伝って僕は起きることにした。顔だけ洗って下の大衆食堂へ降りていった。
「おじさん、今日何?」
「ああ、カツカレー」
「うん、いただくよ、大盛りでね。」
「昨日、原田さんに叱られたんだって。」
「ええ!何故知ってんの。早耳だね。」
「少し前、原田さん下りてきて話してたよ。」
「ふうん。」
僕は新聞を読みながら、大盛りカツカレーを食べていると、横から、
「学生さんはいいね。気楽で。」
と見知らぬ若い男性が少し嫌みたらしく話しかけてきた。食堂のおじさんが、
「この人ね、向かいのマンションに引っ越してきた、光岡さん。写真家なんだって。今篠山紀信と張り合っているんだって、すごいでしょう。」
「マスター、オーバーに言わないでよ。まあ篠山紀信と張り合っているのは事実だけど。」
と言う。
[何がマスターだ、おじさんで充分だ、僕でも篠山紀信位知っているが、(平凡パンチかプレイボーイで見たことがあったから)光岡なんて名前知らないよ。ど ちらでもいいけど]と思いながら、ガキのようにカツカレーをパクついていた。
「学生さん、名前なんて言うの。」
と、張り合っているカメラマン光岡が聞くので、名前を言うと、今度うちのマンションで麻雀をやろう、マンションなら怒られずに済むから、と言う。
「ああ、そのうちお願いしますよ。」
[よし、徹マンと早朝ボーリングで鍛えた腕でパチパチにとっちめてやるか]などと思いながら、なかなか話の分かる奴だと、褒めたりもした。

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第一章 その2

部屋に戻ってもこれといってする事がないので4日ぶりに風呂へ行くことにした。風呂桶とタオルと石鹸を持って、下駄を履き、(風呂屋へ行く時は必ず下駄を 履くことに決めている)若旦那になったつもりで、颯爽と暖簾をかき分け、30円を小粋に番台の上に投げ捨てるように置いた。早い時間だと夜の勤めの女性が 風呂に来ている事もあり、ラッキーだと番台から見える事もしばしばあった。1時間程かけて髪も身体も2回どうり丁寧に洗い、風呂から帰ったが又することが ない。
[そうだ、あいつに電話してみよう]
あいつとは、江田久美子のことである。何故知り合ったかと云うと、実は何を隠そう、僕は華道部に入っているのだ。
ここで、少し僕の自己紹介をしておこう。僕の名前は伊達省吾と云う。中央大学の法学部に今年4月、1年間の浪人生活(浪人生活は京都でしていた)を経て、 無事入学し、本当は落研(落語研究会)に入る予定であったが、隣のバザーに可愛い美人が沢山いたので誘われるままついつい華道部に入ってしまったのであ る。流派は草月流らしい。生まれたのは岡山県の邑久郡と云う風光明媚な処で、両親は魚の運送業をしている。幼少のみぎりまだ字も読めない時、母親がかぐや 姫の物語を聞かせてくれて、それをたまたま1回で丸暗記をしたものだから、親戚じゅう大騒ぎになり、天才だとか、神童だとか言われた事があった。が、それ も大きくなるほど化けの皮が剥がれ、成績も下がり今日に至っている。
財布とアドレス帳を持って、200メートル程離れた公衆電話へ急いだ。
「もしもし、すみませんが105号室の江田さんお願いします。」
彼女が住んでいるアパート、みどり荘にはピンクの共同電話が設置してあり、ベルを聞いた誰かがその電話に出て、相手を呼び出すと云う仕組みになっている。それでも電話があるだけましである。
「もしもし、留守のようですけど。」
まことに無愛想な女の声が返ってきた。
「済みません、ありがとうございました。」
と、言い終わるか終わらないうちに、受話器に冷たい音がし、切れた。
[チェッ!]
仕方がないからパチンコでもすることにした。椎名町の駅前には2軒の店があり、僕はよく行く天国会館に行った。当時はまだ左手で玉を入れ、右手でバネを弾 くと云う台がほとんどだった。この間、吉田が左手を使わず、右手だけで打つ新しい機械の入ったパチンコ店を見付けてきて、行こう行こう、と言うものだから 行ったが、[これは素人のパチンコだ。]と云う事になった。左手で玉を入れ、腰と足でリズムを取りながら、右手で打つ。これこそパチンコの真髄である、と 思い込んでいた。そこそこ出たので缶詰やチョコレート等にかえて、もう一度江田久美子に電話をしてみた。今度は運良く彼女が電話に出た。
「はい、みどり荘です。」
「あのう、もしもし、江田さんお願いしたいのですが。」
「江田ですけど、どちら様ですか?」
「先日はどうも、伊達です。」
「あら、伊達さん、何でしょう?」
「今から、そっちへ行ってもいいですか?」
「困ります。今から食事を作るところですし…」
「いいじゃないですか。お土産持って行きますから。」
「困ります。また今度にして下さい。」
と言って電話は切れた。僕は一瞬怯んだが、とにかく居るのだから行くことにした。随分あつかましい話である。実は告白すると、彼女のアパートへは、丁度一 週間前に行った。どういういきさつだったかと云うと、お華の稽古が終わった後、みんなでお茶を飲もうと云うことになり、御茶ノ水の駅前のウィーンと云うク ラッシック喫茶へ行ったのである。そこであちらこちらで始まり出した学生運動のことや、秋にある関東華道連盟の華展の事や、話題の映画についてとか、色々 と話し合って帰る事になった。ほとんどは国鉄の中央線を利用しているが、僕と彼女ともう一人、倉橋さんだけは、地下鉄丸ノ内線を通学に使っていた。その倉 橋さんも茗荷谷で、[お先に]と言って降り、二人きりになったのである。
「江田さんは北海道だったね、出身は。」
「ええ、そうよ。伊達君は岡山よね。」
「うん、景色の良いところでね。それに魚もおいしいんだ。」
「北海道もおいしいわよ、魚。」
「江田さんは自炊してるんですか。」
「ええ、まあ。」
「もう遅いし、何処かで食事しませんか?」
「そうね、それじゃ私の住んでる北池袋の駅の近所に良い店があるから、そこでします?」と云う事になり、食事中も話が合い、そのままずるずると、彼女の住 んでいるみどり荘へ行ったのである。話が合いと言ったが、実は合わしたのである。以前から、女の一人住まいのアパートの部屋とは一体どんなものか、見たく て見たくて仕方がなかったのである。実現したのだから、内心はかなり興奮していた。彼女は文学部の一年生で、浪人をしている僕より年は一つ下である。肌の 色は北国の出身らしく白く、小柄でぽっちゃりとした、なかなかの美人である。
後ろめたさを多少感じながら、みどり荘の彼女の部屋のドアを、[コン、コン]とノックすると、
「どちら様ですか?」
「ああ、すみません、僕です、伊達です。」
ドアを開けてもらえないかと思っていたが、ドアが開き、
「早く、早く入って下さい。」
と、僕を急き立てた。そんなに歓迎される訳がないのに、と思いながら靴を脱いだ。もう一つ告白すると、前にこのアパートへ来た時に、少々強引にキスをして しまったのである。次の行動に移ろうとした途端に、するりと彼女に逃げらればつの悪い間を、何秒か過ごしたのである。それからは、話もかみ合わず、早々に 退散したのであるから、歓迎などされる筈はないのである。
「これ、電話で話したおみやげ。」
「パチンコの景品ね。でもありがとう。ご飯は一人分位しか炊いてないけど、家から送ってきた干物があるので、それで良かったら食事しますか?」
「ああ、しますします、感激です。こんな食事なんて何ヶ月ぶりかな。」
「普段はどうしているの?」
食堂のおじさんの話をすると、なるほどとうなづいていた。彼女の部屋は8帖位あって、横に2帖程の台所がついていた。何よりも驚いたのは、テレビがある事 である。家庭にこそテレビはあったが、学生が持てるほど安くはなかったし、又、必要でもなかった。従兄弟の浩一は、この夏バイトをしてテレビを買うと張り 切っていたのを、思い出した。色々と楽しい話をして、その日は何事もなく、9時頃帰った。帰り際に、
「また来てもいいかな?」
と聞いてみると、
「私は構わないけど、回りが何かとうるさくてね。」
と、久美子は答えた。そうか、僕はまあまあ気に入られているのか、問題は近所回りか、と思いキスが出来た一週間前よりも、嬉しい気分で桜荘に帰った。

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第一章 その3

それから何日かたって、階下の食堂で食事をしていると、おじさんが、
「ねえ、伊達さん、この間の光岡さんがね、今日か明日麻雀をやらないか、と言っているんだけど、僕知らないし、メンツ揃えてくれない?すぐ揃うでしょう?」
「揃うことは揃うけど、今から大学へ行くから話してみるよ。いたら連れてくるから。」
「じゃあ、そう言っとくね。」
僕達は他流試合はしたことはないが、原田さんに叱られてからやってないし、もうそろそろ麻薬患者のようにイライラしている時分だから、見つかって声さえか ければ、必ずシッポを振ってついて来るのに決まっている。でも問題は、僕が大学の講義のうち、唯一楽しみにしていて、余程の事がない限り、休まない授業 [法社会学]に、奴等が来ているかどうかである。教室に来てみると案の定誰もいなかったが、真面目に講義を受け帰ろうとしていると、
「おい、何やってんだ。」
と言って肩を叩かれ、振り返ってみると、吉田がいた。
「随分やってねえなぁ。今日あたり教えてやろうか、久しぶりに。」
この吉田と桜台の住人熊沢は、実を言うと僕の麻雀の弟子なのである。入学して一週間も経ってないのに、僕が麻雀の天才である事を何処からか嗅ぎ付け[教え ろ、教えろ]とやかましく言うので、仕方なく喜んで教えたのである。僕は京都で浪人中に覚え、麻雀ばかりしていたので、目指す京大にも入れず、今こうして 中央大学にいるのである。
「熊沢今日来てねえかな。」
「見てないけど、奴ならジンゲキにいるかも知れないよ。」
「そうだな、いそうだな、いってみるか。」
ジンゲキとは、人生劇場の略で、大学からそう遠くない、神田にあるパチンコ屋の事である。法社会学の授業を終え、ジンゲキに行くとやはり彼はいた。
「暇な奴だなあ。おい、もうやめろよ。」
と、吉田が言うと、
「今やっと出だした処なんだよ。お前らもやれよ。」
「俺はいやだよ。伊達どうする。」
「俺もいいよ。今日は。」
「それじゃ、ハイライトで待っててくれ。すぐ行くから。」
僕と吉田は、行きつけの喫茶店ハイライトで待つことにした。当時コーヒーは百二十円位だったが、そこは学生専門なので百円で飲めた。あたりはガチャガチャ とうるさいが、さして気にもならず、運ばれてきたコーヒーを一口飲み、ショートホープに火をつけた。
「おまえ、一ツ橋や早稲田も合格していたのにどうして中央へ来たんだ。司法試験を目指している風でもないし。」
と僕は吉田に聞いた。
「僕達の高校では(吉田は神奈川県でもトップの湘南高校卒)一ツ橋は二流なんだ。と云うのは、一流は東大へ行くだろう。初めから東大が無理な奴が一ツ橋や そこらに行く訳。だから、一ツ橋へ行くのだったら、東大の滑り止めに受けている早稲田や慶応へ行く方がかっこいい訳。」
「じゃあ何故早稲田へ行かなかったんだ?」
「早稲田や慶応へは俺の所から沢山いってんじゃん。面白くないじゃん。高校の延長みたいでさ。」
「そんなもんかね。」
「いいじゃないか。本人が良いって言ってるんだから。お前がごちゃごちゃ言わなくても。」
「そりゃそうだ。」
「それよりさ、この間俺の高校時代の連れが、東京医大に行ってんだけど、そいつが丸山博士を見たって言ってたよ。」
「丸山博士って誰?」
「お前、知らないのか?馬鹿だなぁ。あの有名な丸山ワクチンの丸山博士さ。」
「丸山ワクチンって?」
「どうしょうもない馬鹿だなぁ。ガンの薬の丸山ワクチンだよ。俺はもしガンになったら、絶対丸山ワクチンをもらうよ。」
「でも、誰にでも手に入るのか?それに高いんだろう?」
「一寸手続きは面倒だけど、無茶苦茶安いんだよ。薬品会社は色々と買いに来ているらしいが、博士は絶対売らないんだって。売っちゃうとバカ高くなるから ね。しかし、残念な事になかなか厚生省が認可しないんだ。薬事法とか何とか、うるさい法律があってさ。きっといろんな利権が絡んでいると思うよ。」
「おい、伊達。」
と声がするので、顔を上げると柴木が立っていた。
「こんな処で、又さぼってよからぬ相談をしているのか?一度俺んとこへ遊びに来いよ。」
「おお、そのうち行くよ。じゃあな。」
「じゃな、また。」
と言って柴木は出ていった。柴木は名古屋の出身で、中野に住んでいる。真法会(司法試験の研究会)に入っていて、検事を目指している。
「すまん、すまん、待ったか?」
と言いながらにやにやして、熊沢がやってきた。どうやら勝ったようだ。
「遅いよ。じゃあ行くか。」
せっかちな吉田が言うと、熊沢は、
「俺にもコーヒーくらい飲ましてくれよ。」
「早く飲めよ。全く愚図なんだから。」
「お前がせっかちなんだよ。今夜はとっちめてやるからな。覚悟しておけよ。」
二人のやり取りを横で聞きながら、僕が見てもゆっくりとした動作で、コーヒーを飲む熊沢に多少の苛立ちを感じながら、光岡氏のことを話した。二人の弟子達 は初めての他流試合に、いささかの緊張と不安を抱いた様子だった。熊沢がやっと飲み終えたので、勿論割り勘でコーヒー代を払い、ハイライトを出た。

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第一章 その4

地下鉄丸ノ内線で終点の池袋まで行き、西武池袋線に乗り換え、一つ目の駅、椎名町に着いた。駅前の商店街を抜けると、僕達のアパート[桜荘]までは10分 もかからない。5年程前、仕事の関係で東京へ出張した時、少し時間があったので、十何年振りかに、第二の故郷のようなこの街に来たことがあった。殆ど街の 様子は変わっていなかったが、桜荘はもう取り壊されて、中層マンションの一部になっていたし、光岡さんが住んでいた近代的なマンションは陳腐化していた。 僕の入る余地など全くなかったが、不思議と寂しさはなかった。時代とか人生というものは、これで良いのだ、としみじみ思った。
6時頃桜荘に着いたが、自分達の部屋へは行かず、1階の食堂へ入った。
「おじさん、マンションへ行ったらいいの?どうするの?」
と聞くと、おじさんは
「来たら電話するように聞いているから、一寸待って。」
電話によると、今手が離せないから、30分後に来るようにとの事だった。浩一はまだ学校から帰っていない様子だったので、帰ったら来るようにと、おじさん にことづけをし、我々は腹ごしらえを済ませ、光岡さんのマンションへ行った。部屋は501号室で、東南に面した最もいい処だった。それにエレベーターがつ いており、僕からすると全く別世界のようだった。[ピンポン]とチャイムを押し、
「こんにちは。伊達です、どうも。」
何か自分が妙にへつらっているようで、少々不快な気分になっていた。
「上がって、上がって。」
「どうも、おじゃまします。あの、紹介します。こちらが吉田。こちらが熊沢。この人がカメラマンの光岡さんです。」
「光岡です。お手柔らかに。まぁ、座って。コーヒーでも入れるから。」
座り心地の良いソファに腰を下ろした。部屋の中は、男の一人住まいにしては大変綺麗で片付いている。6帖程のダイニングキッチンと、8帖位のリビングがワ ンルームになっていて、他に和室が一つと洋室が二つあり、一つを暗室がわりに使っていた。和室には既にパイの準備が出来ていた。コーヒーメーカーで(イン スタントではない)落ちたコーヒーを飲み終え、いよいよ戦闘開始である
僕はかなり興奮気味だったが、僕の弟子達は僕が電車の中で言ったこと、つまり[最初の半荘は相手の力量を観ることだけに専念しろ]を忠実に守り、決して無 理はしなかった。半荘を終えた時、吉田が僕の方を見、にやりと笑ったので、僕も目で合図を送った。我々にとって光岡さんは所詮敵ではなかった。赤子の手を 捻るとは、こういう事を云うのだろう。
「みなさん、強いね。かなわないわ。」
七、八回半荘を終えた処で、光岡さんがぼやいた。
「もう止めます。」
と僕が言うと、
「もう一回だけ、やろう。」
と云うことになり、最後の半荘にはいった時、[ピンポン]とチャイムの音がした。浩一が来たのかな、と思った。
「光岡さんいます。栗田です。」
「おい、上がれよ。今、麻雀やってんだ。」
髪の毛を短くした、薄い色のついたサングラスをかけ、がっちりとしているが、男としては透き通るように色の白い肌をした、栗田と云う男がやってきた。どうやら光岡さんの遊び友達らしい。
「もういい加減に止めて、飲みにでも行こうよ。どうせ負けてんだろう。すぐカッカする方だから、光岡さんは。この頃の学生さんは強いからな。」
後で食堂のおじさんに聞いた話だが、この栗田と云う男は、表向きは不動産屋をやっているが、本業はヒモで彼の女はバーをやっているそうである。その事を 知ってから我々は、栗田さんがいない所では、ヒモチャンと呼ぶようになった。例えば、[今ごろ、ヒモチャンどうしているかな]とか[ヒモチャンは週何回位 するのかな]と、いった具合に。最後の半荘もやはり光岡さんは負けた。精算をし始めて、僕は心臓が張り裂けそうになった。と云うのは、始める前に簡単に ルールを確認しあい、レートを決めたのだが、その時に[じゃあ、レートは②と云うことで]になっていた。②と云うことは、僕達が日頃やっているレートで、 箱点(始めに手許にある点数を示すチップの様な小さな棒が全てなくなること)で、マイナス6百円なのである。しかし、一人負けの光岡さんは驚くなかれ2万 1千円を支払ったのである。マイナス105だからである。なななんと一ケタ違うではないか!それを最初に知っていたら、こんなに平常心で打てていたかどう かは全く分からない。吉田と熊沢が、僕に眼で相談してきた。猪山なら平気で分けただろうが、僕は少し迷った。今月の小遣いも残り少ないし、こんなにいい部 屋に住んでんだから、と勝手な理屈をつけて、僕は手を震わせながら、二人にそれぞれの勝ち分を渡し、残ったお金をポケットに押し込んだ。後で確認し合った のだが、[負けなくて良かったなぁ。他流試合は怖いなぁ。]と。
10時を少し過ぎていたが、ヒモチャンのおごりで、バーへ飲みに連れていってもらった。実は、僕はバーへ行くのはこれが始めてなのである。でも、知ったかぶりをして、
「水割り、ダブルで。」
と注文していた。これも後から食堂のおじさんに聞いた話だが、その[ラビアンローズ]と云う店は、ヒモチャンの女がやっている店なのである。一時間一寸いて、帰り際に、ヒモチャンが、
「光岡さん、又面白いのが入ったから、一度頼みますよ。」
と、小声で囁いているのを耳にした。
「それじゃ、おやすみなさい。」
と、店の前まで送ってきた女は、確か最初に[いらっしゃいませ]と、言っておしぼりを出した、この店で唯一の美人で、ヒモチャンは[明美]と呼んでいた なぁ、と思いながら桜荘へ帰った。吉田はまだ終電に間に合う、と言いながら藤沢をめざした。熊沢は多分、東長崎、江吉田、を過ぎ桜台へと帰っただろう。
桜荘の2階へ上がる階段は、鉄製の外階段式になっており、夜中などは足音がひときわよく響く。僕は遠慮がちに階段を上がって、下駄箱に靴を入れた。廊下に 電気が点いていたので消し、横を見ると、共同便所にも電気が点いていた。
「もったいない、誰だ、点けたままにしているのは。」
と、言いながら電気を消した。僕達の201号室を開けると、浩一はドライヤーで髪を乾かしていた、
「おい、来なかったじゃないか、おじさんにことづけていただろう。」
「もう遅かったしな。それでどうだった?」
事情を説明すると、明日何か奢れと言う。ドライヤーをしまいながら、
「明日は一時限があるからもう寝るわ。」
と言って僕の部屋の押し入れから、布団を出して寝る体制をとった。僕達の201号室は、6帖と4.5帖の和室二間で、入り口に申し訳程度の流し台がある。 6帖が浩一で、4.5帖が僕の部屋になっていた。何故そうなったかというと、4.5帖の部屋は入り口と接していて、その部屋を通らないと6帖には行けない 間取りになっている。いつも、遅く帰るのは僕の方なので自然にそうなってしまった。外で何か物音がした。耳を澄ますと、共同便所の戸の開閉の音である。
「もう、いやね。人がトイレに入っているのに消すなんて。」
と、聞こえよがしの独り言がした。[しまった!いたのか!あれは隣の美人姉妹のどちらかだ]と思ったが、後の祭りである。[コンコン]と、ノックがしたの で、てっきり隣の美人姉妹のどちらかが文句を言いに来たと思い、謝る準備をし、あわてて戸を開けた。
「これ、召し上がって下さい。今日良いことがあったもんで。この間は大人げないことをしてしまって、お恥ずかしい。少々イライラしていたもんで。女房にひどく叱られましたよ。今度一度麻雀やりましょう。」
と、ニコニコ笑いながら原田さんが立っていた。手に溢れんばかりのバナナを持って。
「いいえ、僕達こそすみませんでした。これから気をつけます。」
「いいえ、いいんですよ。是非今度、声をかけてください。本当は好きなんです、これ。」と言ってパイを混ぜるゼスチャーをした。今日原稿が売れたとかで、 とても上機嫌で、少しアルコールも入っていた様子だった。浩一と二人でバナナを食べながら、僕は夕刊を読みながら、深夜ラジオを聞きながら、明日は何をし ようかと悩んでいた。何もすることがないというのも、辛いもんだ、などと思いながら…


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第二章 その1

今日も熊沢は途中下車をして、僕達のアパートに来ていた。
「まだ、猪山帰ってねえかな。」とか、
「もう一度光岡さんとやろうよ。」とか、
「そう言っているんだったら、原田さんを誘ってあげたら。」とか、
頻りにだだっ子の様な事を繰り返し言っている。僕は聞き流しながら池袋の駅で買ってきた週刊誌を見ていた。すると、戸がコンコンとノックされ、
「伊達さん、居る?」
と、食堂のおじさんの声がした。僕は戸を開けた。
「なぁに、おじさん。」
「光岡さんがね、遊びに来ないかって、今電話があったんだけど。どうする?俺も後から行くからさ。何か面白いものがあるそうだよ。」
「なんだろう。麻雀かな?」
「いや、そうじゃないらしいよ。もう伊達さんらとは2度としないと言ってたもん。兎に角行ってみたら。」
と言うので、別にすることもないし、熊沢と浩一と3人で行くことにした。
[ピンポン]
「済みません。伊達です。」
「ああ、伊達君。来たの。さあ上がって。」
上がるとヒモチャンがいた。ヒモチャンはソファにもたれて、ウィスキーを飲みながら、妙ににやにやしていた。
「今までに見たことがあるかも知れないけど、今日いいのが手に入ったんだ。」
と、誇らしげに光岡さんが言う。どうやら話には聞いていたが、所謂、ブルーフィルムと云う代物らしい。勿論僕は始めてだった。光岡さんは器用に映写機を組 み立てて、壁にスクリーン用の真っ白な布を丁寧に張った。この間[ラビアンローズ]で、ヒモチャンが光岡さんに言っていた[良いのが入ったら]と云うの は、この事だったのか、と納得をした。部屋の灯りを消すように、と光岡さんが僕に言うので、唾を飲み込みながらスイッチを切った。ヨーイスタート。カシャ カシャと映写機も少し興奮しているらしく、音を震わせながら画面は、987…3210とカウントダウンされた後、題名が出た。勿論音声はない。一本目は今 でもよく覚えている。夫婦で野良仕事をしていたが、急に全く意味もなく急に、その気になって、セックスをしだす。(本来はセックスなんて言葉は、このブ ルーフィルムには全然マッチしないんだが、不承不承セックスにしておく)二本目は確か女性が寝ているところへ、頬覆りをした強盗が入り、物や金品を盗らず に犯してしまう、そんな内容だったと記憶している。
「光岡さん、こんなの古いよ。新しいのが入ったて言ってたじゃん。こんなんじゃ、学生さんでもタタナイヨ。」
とじれったそうにヒモチャンが言う。いえいえ、僕にとっては全く新鮮ですよ。充分ですよ、と言いたかった。当時ピンク映画と呼ばれていたものを、それ専門 の映画館で見る事は出来たが、今のAVからするとお話にならない程幼稚なものだった。普通は白黒で、クライマックスになるとカラーになるという、パートカ ラーの映像だった。それですら見終わった頃にはかなり興奮していたのだから、充分過ぎるほど充分だった。光岡さんが、
「まあまあ、これから、これから。今までのはほんのお口汚し。栗田さん、期待して待ってて下さい。」
と言った。それから五、六本見ただろうか、僕はすっかりのぼせ上がり、頭も身体もボーとしていたが、下半身だけは、今にもズボンを突き破りそうになってい た。中でもヒモチャンが絶賛した外国もののカラーのやつは、只只圧倒されるばかりだった。ヒモチャンはそれをすっかり気に入り、譲ってくれと、さかんに光 岡さんに迫っていた。光岡さんは、もう売れ口が決まっているからダメだ、と断っていたが、ヒモチャンはどうしても欲しくて欲しくて仕方がないらしく、倍の お金を払うからと言って聞かない。光岡さんは困り果て、決まっている買人に電話をして、さかんに謝っていた。どうやらヒモチャンは今回の目的を達成したら しい。
「今日は気分が良い。ぱぁーっと飲みに行こう。ぱぁーっと。新宿まで行くかい?それとも池袋にする?」
気分を良くしたヒモチャンが言う。
「栗田さんにはかなわないよ。我が儘なんだから。」
と、光岡さんが愚痴っぽく言った。
「栗田さん、この間の店でいいよ。」
と、僕は言った。
「なぁんだ、ラビアンでいいのか。お安い御用だ。行こう行こう。皆で。」
と云う事になった。
「おい、来たぞ。さあじゃんじゃん飲んで。」
と、ラビアンローズへ行ってもヒモチャンはすこぶる上機嫌だった。僕は眼で明美を追った。明美と目が合い、彼女が[にこっ]と、笑ったような気がした。
二時間程、飲んだり騒いだりしただろうか、熊沢は終電に乗り遅れるから、と帰るし、浩一は明日一時限の授業があるから、と言って帰った。僕はあのブルー フィルムも手伝い、良い気持ちで酔っ払っていた。ヒモチャンが、
「おい、もう看板だろう。寿司食いに行こう。学生さんも行こう、名前は伊達君だったか?明美、おまえも行こう。」
と誘い、近くの寿司屋へ行き、又ビールや日本酒を飲み、したたか酔っ払った。ヒモチャンが、
「今度は俺んとこへ来い、飲み直しだ。」
と言って、僕と明美とが連れて行かれた。光岡さんのマンションよりも遥かに立派な部屋だった、までは覚えていたのだが、後はまるっきり覚えていない。
頭の痛さと、日の眩しさと、空腹とが重なって目が覚めた。でも、自分が何処にいるのか気が付くまでにはしばらく時間がかかった。赤や紫の洋服がカーテン レールにかかっているところを見ると、どうやら女性の部屋にいるようだった。何故ここにいるのか?ここが誰の部屋なのか?記憶を辿ってみたが、思い出せな い。時計を見ると10時を少し回っていた。少し離れたベッドには誰か女性が眠っているようだった。僕は服を着たまま寝てしまったようだった。下半身だけは 異常に元気があるようだ。何かあのフィルムが夢の中の出来事の様に思えた。少しおさまるのを待っていたが、おさまりそうもないので、そおっと起き、トイレ に行き、又布団の中に潜り込もうとした時、
「あら、もう起きたの?もっと寝てなさいよ。」
と、少し離れたベッドに寝ていた女性が、上半身を起こして、こちらを見ながら言った。化粧を落としていたが見覚えのある顔と、聞き覚えのある声だった。(ええ!もしかしてここは明美の部屋?)
「明美さんですよね?どうして僕はここにいるんですか?」
「覚えてないの?そうだろうと思った。大変だったのよ、夕べは。本当に困っちゃったわ。」
「済みません。全然記憶がないんです。」
「伊達君だったわね、君。君酒癖、余り良くないわよ。帰らない、帰らない、もう一軒行くと言って、栗田さんを困らせたのよ。まったく!仕方がないから、私 がここに連れてきたのよ。何処に住んでるかも分からないし。」
「そうですか、それは、それは、申し訳ありませんでした。こんなこと始めてです。それでは、もう帰ります。」
「もう少し待って。コーヒー位入れるわ。飲んでいきなさい。私、その前にシャワーしてくるわね。それにこの素顔じゃ、君もびっくりでしょうからね。」
「いいえ、素顔の方が綺麗ですよ。」
「無理しなくていいわよ。お布団上げて、そこの押し入れにしまっといて。シーツは洗うから、その辺にたたんで置いといて。」
命令口調で言い残し、バスタオルと着替えを持って浴室へ消えていった。シャワーの音を聞きながら、明美の裸をイマジネーションした。又、下半身がおかしく なってきた。ジーパンとTシャツに着替え、軽くお化粧をして、明美が浴室から出てきた。コーヒーとトーストを御馳走になり、僕は桜荘に帰った。[又、飲み に行きます]と云う言葉と、後ろ髪を残して。


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第二章 その2

次の日、僕は講義を受ける目的で大学へ行った。と云うのは、一週間の内、僕が唯一楽しみにしている講義[法社会学]があるからだ。何故、この講義だけ興味 があるかと言うと、入学当初に、必須科目の他に選択科目と云うのがあって、単位を取るために何種類かの内からいくつか講座を選ばなければならないのであ る。一度選んでしまったら変更が出来ないので、試験的に講義を受け、その中から自分が興味を覚えたものを選び大学へ届ける、と云うシステムになっている。 その試験的に受けた科目が[法社会学]で担当の教授、確か大村教授だったと思うが、その教授の最初の講義に珍しく感銘を受けたからである。大体こんなよう な話だったと思う。[君達は法学部の学生ですから、法律を学びに我が校へ来たと思いますが、法律とは一体何でしょう?理解していますか?どうも、最近は勘 違いしている処が多くて困ります。法律が社会を作っていると、思われているふしがあります。そうではないんです。そもそも法律を作っているのは社会なので す。例えば具体的に申し上げますと、少々下品で申し訳ありませんが、立ち小便をすることは、軽犯罪法で禁止されていますね。この中にも何人か女性の方がい らっしゃいますが、女性諸君はしたことはないでしょうが、男性の方は、今までに一度もしたことがないと云う人はいないでしょう。かく云う私も、今までに数 え切れないほどやりました。で、本来は罰せられるべきですが、未だかつて罰せられた事は一度もありません。と云うことはですね、立ち小便をしてはいけな い、と云う法律自身は全く存在価値がない訳です。少し眼を広げてみて下さい。戦争が始まれば平気で人を殺しますよね。それを緊急避難とか何とか言ってただ 誤魔化している部分もありますよ。政治資金規制法や食管法なんて云う法律は、最たるサル法です。社会の環境や潮流や価値観の変化などで、法律も変えていく べきなのです。新しく作るのも勿論大切ですが、古く合わなくなったものは、勇気を持ってどんどん廃棄する事も大切です。そう云うような事をこの一年かけ て、諸君と勉強していきたいと思っています。ですから、司法試験を目指している人には、何の役にも立ちませんから、時間の無駄だと思います。]
僕はノートを取りながら、かなり集中して講義を受けていた。誰かが肩を二、三度叩くので、振り返ってみると熊沢が立っていた。僕は席を一つずらして、熊沢を座らせた。
「伊達、いやに熱心にこの授業だけは出るんだなぁ。」
と小声で言った。
「うん、結構面白いんだよ、この講義。」
「もういいだろう。出ようぜ。」
「後30分位だから、お前もここにいろよ。」
「いやだよ。それじゃ、ハイライトで待ってるから、終わったら来いよ。」
と言って、熊沢は教室を出ていった。授業を終え、ブックバンドで本やノートを留め、それを肩から掛ける様にしてハイライトへ行ってみると、熊沢は脇にマンガの本や週刊誌を山積みにしていた。
「おい。」
と声をかけると、
「遅かったじゃないか。退屈したよ。」
「わるい、わるい。」
と言って、熊沢の向かいへ座り、愛想の良いウェイトレスにコーヒーを注文した。
「伊達。変な事を聞くが、お前童貞か?」
「何だよ、急に。バカだなあ。変な事を聞いて。」
「実は俺女知らないんだ。十九にもなって。もうすぐはたちだぜ。あと二ヶ月もしたら。お前どうかと思って。」
僕はドキッとした。(実は俺もだ)と、言いたかったが見栄を張り、
「知らない事はないが、お前この間のブルーフィルムを見て、妙な気分になってんじゃないのか?」
「違うよ。もっと前から悩んでいたんだ。俺だけじゃないかと思って。お前も童貞だったらいいなぁ、とか思って。やっぱりお前は経験あるのか。どんな具合だった。なぁ、どうだった?」
「そんなに多くはないけど、高校の時、足を怪我して入院したんだけど、その時の看護婦と仲良くなってね。彼女年上だったし、リードしてくれたけど、最初は上手くいかなかったよ。」
怪我をしたのは本当だったが、後は希望的観測を作り話に変えて話した。
「そうだろう、そうだろう、最初は上手くいかないって書いてあったよ。おい、今日トルコへ行かないか?付き合えよ、俺に。」
「バカ、俺いやだよ。それに金もないし。少しは下調べもしておかないと。」
「じゃ、今日下調べをして、明日行こう。なあ、頼むよ。金なら何とかするからさ。」
と、云う事になってしまった。熊沢は伊豆の下田の出身で、父親は歯医者をしている。入学当初、大学を辞めてやっぱり歯学部を受け直そうかな?と言っていた が、僕達が、せっかく中央へ入ったんだから司法試験をやるべきだよ、などと無責任な事を言って、おだてたものだから、この頃は大学を受け直す事は言わなく なっている。結局熊沢は、卒業してからもう一度他の大学の歯学部に入学し、現在は父親の後を継いで下田で歯医者をやっている。
コーヒーを飲み終え僕達は下調べをすることにした。先ず近所の本屋へ行ってみたが、そんな情報のある本も雑誌もなかった。どうやって調べようかと相談した 結果、電話帳がいいと云う事になり、電話ボックスを探して男二人で中に入った。職業別電話帳を繰って、風俗業という欄を捜した。トルコ風呂は、正式には特 殊公衆浴場と云うらしい。どうせ行くのだったら江戸文化の香りする、吉原がいいという事になった。台東区にある特殊公衆浴場を捜し、ニ、三軒ピックアップ し、名前と電話番号を控えた。どちらが電話をするか、じゃんけんで決め、負けたので僕がする羽目になった。[ダンヒル]と[大奥]に電話してみたが、料金 もさほど変わらず、余り下調べにはならなかった。その日は熊沢も途中下車しないで、まっすぐ桜台へ帰った。僕はいつもの通り、おじさん処で食事を済ませ、 風呂屋へ行き、多少念入りに洗い、椎名町の駅からアパートへ帰るまでの間に買った、新しいパンツをはいた。
次の日僕は大学へは行かず、熊沢が来るのをアパートで待った。約束の6時よりも30分も早く熊沢はやって来た。おじさん処で軽く食事をとって吉原へ向かっ た。昔の若者もこんな気分で行ったに違いない、などと思いながら。特に今日は僕にとっても、熊沢にとっても、記念すべき[筆下ろし]の日だもの。(熊沢は 僕が始めてだと云う事は知らないが)熊沢は浮き浮きした気分で、妙にハイで張り切っていた。しかし、僕は不安が募る一方だった。金の方は熊沢に15000 円借りて持ってはいるが、得体の知れないプレッシャーを感じていた。下調べをした[ダンヒル]へ行くことにした。
「ヘイ、いらっしゃい。」
威勢のいい兄ちゃんの歓迎の挨拶。入り口で入浴料参千円也を払い、小さな待合室で行儀良く待っていると、薄いグリーンのスケスケのネグリジェを着た女性がやってきた。
「どっち?貴方?」
熊沢は、
「お先に。」
と、にやっと笑いどこかに消えた。僕は逃げ出したくなったが、逃げる時間はなかった。すぐ別の、薄い紫色のネグリジェを着た女性が来たからだ。
「どうぞ、こちらへ。」
と言われた。
[ええい、度胸を決めて。もう・・・・・ナスガママ、・・・・・・・キュウリガパパ]
着いた処は、セミダブル位のベッドが一つあり、ガラス張りのむこうには大人が二人入れるかどうかの、バスタブがある個室になっていた。
「お宅、学生さん?始めて?」
「はっ、はい。」
(どこかで聞いたセリフだなぁ)
「それじゃ、60分壱万円。延長30分五千円だけど、どうする?」
「ええ、60分でいいです。」
「そお、わかったわ。そんなに固くならないで。硬いのは下だけでいいのよ。じゃ、そこに服を脱いで。お風呂に入るからね。」
僕は服を脱ぎ、昨日買ったばかりのパンツも脱いだ。彼女は薄紫のネグリジェをとると、もう何も着けていなかった。案内されるまま風呂に入り、洗い場のマッ トの上で前身を洗ってもらった。言われるままに、今度はベッドに行った。僕はキスをしようとした。
「ここはダメ!」
と、彼女は言った。何かの本で読んだが、こう云う商売をしている女性は、他に好きな男がいる場合、唇だけは絶対許さない、と云う事を。(この女性もそうな のかな)人生のドラマを感じながら、真っ白な60分はとにかく過ぎていった。
多分僕の方が早いだろうと、思いながら外に出てみると、果たして熊沢は煙草を吸いながら待っていた。
「おい、どうだった?俺はバッチシ。二回も。癖になりそうだよ。美人だったろう、俺の女。よかった、よかった。俺ももう一人前だ。」
と、はしゃいでいた。僕はあまりの緊張感とプレッシャーで(彼女の名誉の為に付け加えておくが、彼女は色々と手を変え品を替え、努力はしてくれたのだが) 役に立たず、初期の目的を達成できなくて、すっかりしょげ返っていると云うのに。
「まあ、あんなもんかな。お前二回もかよ。俺は一回だけだったけどね。」
と、精一杯の強がりを吐くより仕方がなかった。椎名町へ帰っても、そのショックからはなかなか立ち直れず、その夜は、朝まで深夜ラジオを聞いていた。しら じらと、夜が明け始めた頃、うつらうつらとしたようだった。隣の6帖の部屋では、本当に憎らしいほど平和な顔で、浩一は眠っていた。
(悩みがないのか?こいつは!)


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第二章 その3

睡眠不足で頭がボーッとしていたが、アパートに居ても別にする事がないので、久しぶりに華道部の部室へ顔を出してみた。相変わらず、お華の部屋とは似ても似つかない、薄暗い部屋だった。
「伊達君、明日ひま?」
と倉橋さんが言う。
「ああ、別に何もする事はありませんけど。」
と僕は答えた。
「じゃ、私と一緒に連盟へ行ってくれない?岸君が委員なんだけど、明日岸君都合が悪いの。代わりにね。明日3時から連盟の会議が青学であるの。2時にここで待ってて。お願いね。」
倉橋さんは3回生で華道部の副部長をしている。連盟とは、関東華道会連盟の事である。そうこうしている内に、先輩の檜山さんや彼と付き合っている遠藤さんがどやどやと入ってきた。
「おい、伊達。少しは顔を出せ。」
と、一人前の先輩づらをして、檜山さんが僕のおでこを軽くつついた。
「はあい。」
と、生返事をして僕は出ていった。廊下の向こうから来る、江田久美子を見つけて、お茶に誘った。今日は少し見栄を張って、ウィーンに行った。心地良いク ラッシックの音楽の中で、飾り気のない久美子との会話も弾み、楽しい時間が過ぎていった。昨日からのモヤモヤがすっと消えていった。この間のお返しにと、 僕は久美子を食事に誘った。食事を終え二人は池袋で、西武線と東上線に別れていった。
次の日、約束の2時過ぎに部室へ行くと、倉橋さんが、
「遅いわね。7分遅刻よ。」
と、少々ヒステリックに言った。
「済みません。」
と素直に謝って、お姉様の後に従った。今年の秋の関東華道会連盟展は、中央大学が主管で企画、運営する事になっているのだそうで、倉橋さんは随分張り切っ ていた。会議の開始時間は3時からだったが、15分前には到着する事が出来た。会議の要項をまとめたコピーを資料として出席者の机の上に配り、席に着い た。席は口の字に作られており、全員を人目で見る事が出来る。僕は興味深く出席者を追った。僕の眼は或る一点で静止して、そこから先は動かなかった。前の 名札には、共立女子大と書いてあった。すぐさま、資料の一部にある、委員の名簿に目を通してみると、二人の名前が書いてあった。どちらかな?と、思った が、僕は自信を持って片方の名前を予想した。議長が、
「先ず、議題に入る前に自己紹介をしたいと思います。私から始めますので、後は右回りでお願いします。」
と言い、学年とか出身とか、趣味などを話した。6番目に注目の女性が立って、
「共立女子大の柿沼百合です。」
僕の予想通りの名前だ。真っ白な肌。背は高からず低からず。肩の処で行儀良く切り揃えられた髪は、ストレート。大きくもなく小さくもない鼻は、鼻筋がスッ キリ。目は二重瞼。身体はやや太目だが、その方が却って上品。山形のさくらんぼを想わせるような唇で、透き通るとはこう云う声の事。僕はいろんなイメージ を創り上げた。彼女の父親は大学教授かな?祖父は著名な画家だよきっと。祖母は日本舞踊のお師匠さんだと思うな。母親は御公家さんの血をひいているに決 まっている。兎に角、僕には全く縁の無い、気品と云うものが彼女にはあった。隣で倉橋さんが自己紹介をしている。次は僕の番だ。ようし、何とか印象付けな くては、と、
「僕の名前は伊達省吾と云います。伊達とは伊達政宗の伊達と書きます。省吾の省は反省の省で、吾はワレと書きます。残念ながら、皆さんの手許に配付されて いる名簿には僕の名前はありません。何故なら僕は岸君の代理ですから。代理の伊達、と覚えていて下さい。出身は岡山県の牛窓と云う風光明媚な田舎です。 [うるわ美しの窓]が訛って、牛窓になったと云われており、その昔西行法師もこの地を訪れて、歌も詠んでいます。竹久夢二の生誕地としても有名で、僕の家 の近くには夢二記念館もあります。この秋の連盟展は、我が中大が主管させていただくようで、光栄です。倉橋副部長共々頑張りますので、よろしくお願いしま す。」
話し終えると、倉橋さんが小声で、
「少ししゃべり過ぎよ。」
と睨んだ。改めて名簿を見ると、彼女の住所は小金井市になっており、ラッキーな事に、自宅の電話番号まで書いてある。倉橋先輩に感謝感謝。用事が出来た岸君ありがとう。今日はなんていい日なんだ。


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第二章 その4

椎名町に帰ると、この街がいつもより生き生きしているように感じた。おじさんの店で食事をし、風呂屋へ行った。湯槽につかりながら、鼻歌の一曲も歌いたい 気分になった。アパートへ戻り、浩一のドライヤーを借りて髪を乾かした。10時少し前だったので、一人でラビアンローズへ行ってみた。店に入ると明美が [ニコッ]と、今度は本当に[にこっ]と、笑ってくれた。三杯目の水割りを飲み干した処で僕はトイレに立った。トイレから出てくると、明美がおしぼりを渡 してくれた。そのとっさの隙をついて、明美に耳打ちをした。
「今夜、君んとこへ行きたい。」
明美はけらけらっと笑って無視した。僕も平静を装いながら席に戻った。他に七,八人のお客がいて、あちらこちらで笑い声がしている。明美も忙しそうに立ち 振る舞っている。他の女性が僕についていて通り一辺の世間話をしていたが、つまらなくなり、勘定をしてもらうように頼んだ。3500円と、書かれた小さな メモ用紙を手渡されたので、5000円札を出し、釣りを貰って外に出た。明美が僕についていた女性を制して、見送りに来てくれた。
「ありがとう、またね。」
と言って、僕のズボンのポケットに手を突っ込んだ。僕はしばらく歩いた所で立ち止まり、ポケットに手を入れ探ってみた。カギとメモ書きが入っていた。 [12時過ぎには帰ります。]僕は桜荘に向かっていた足を、回れ右させ、明美のアパートへ向かった。おそらく[にー]と、笑っていたに違いない。
ガチャガチャと12時半頃に、ドアを開ける音がした。
「灯りが点いている部屋に帰るのも悪くないわね。」
と言いながら明美が帰ってきた。
「お帰り。」
もう何ヶ月も一緒に暮らしているような気分で迎えた。
「ただいま。お茶入れようか?それともコーヒーにする?」
「コーヒーがいいです。」
「僕やりましょうか?」
「いいわよ。そこに座ってなさい。」
僕は所在無く、テレビを見ていた。
「はい、どうぞ。インスタントだけど。」
「ああ、ありがとう。」
明美はコーヒーを二口ほど飲んだ処で、
「君。あたしのこと随分軽い女だと想っているでしょう。二、三度しか会ってない、それによく知らない男を自分のアパートに引っ張り込んで。」
「いいえ、とんでもない、そんなこと。」
「上手くいったと思っているでしょう、本当は。」
「いいえ。僕、今夜は特に人恋しい気持ちだったし、それに明美さんの事、一番最初に栗田さんに連れていってもらった時から、素敵な人だなぁと、想っていましたし……」
「いいのよ。無理しなくても。まあいいか、そんなこと、どっちでも。伊達君だったわね君。君いくつ?」
そんな会話の中で、お互いの身元調査は進んでいった。明美は歳は21才で、出身は新潟の十日町だそうで、美容師になりたくて高校卒業と同時に上京したが、 3ヶ月で辞め、友達の誘いもあって新宿のバーで働き始め、ある事情で半年前に椎名町へ引き越し、今のラビアンローズにいるのだそうだ。僕は風呂を涌かして おいたのを思い出し、
「あの、お風呂に入れますから、どうぞ。」
「あら、気が利くわね。それじゃ先に入らしていただきましょうかね。こういうの割といい気分ね。悪くないわ。」
と言って、にこっと微笑んだ。鏡の前に座って、お化粧を落としながら、コーヒールンバを口ずさんだ。
[昔アラブのえらいお坊さんが、恋を忘れた哀れな男に……]
「いいお湯だった、お先にでした。君も入ってきなさい。そこに洗濯機があるでしょう。君の着ている服、余り綺麗じゃないから、その中に入れておくといいわ。着替えは出しておくから。」
化粧気のない顔は僕より年下に感じた。湯槽に浸りながら、[今日は2度目だなぁ、お風呂。こういうのも悪くないなぁ。ヒモチャンの気持ち、解るなぁ。]な どと妙に納得しながら、風呂から上がると、女物だけど、Tシャツとそう派手でないパジャマのズボンの方が置いてあった。ズボンの方はちょっぴり短めだけ ど、Tシャツは素肌にピッタリ。
「部屋にお風呂があると云うことは、いいもんですねぇ。」
と言いながら、明美から出されたトマトジュースを一気に飲み干した。こんな美味しいトマトジュースは初めてだ。深夜のテレビは相変わらず何かを放映している。
「君、もうそろそろ寝る?」
時計を見ると、2時前だった。
「あの、お布団はどこにあるのですか?」
「バカねぇ。こっちへいらっしゃいよ。」
明美はベッドに腰をかけ、そう言った。僕はためらいながら、でも心臓はドキドキが早くなりながら、ベッドにもぐり込んだ。当たり前の事だが、明美は女の匂 いがした。それは求め続けていた匂いだった。[今夜こそ俺は男になるのだ]でも、不思議とプレッシャーはなかった。水密桃のような香りの中で、酔いしれる ような快楽で泥のような眠りに落ちていった。


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第二章 その5

朝の陽光と左腕の快い痺れで、僕は目が覚めた。明美を起こさないように、左腕をそおっと明美の細い首から抜き、うつ伏せになり、上半身を反る様な格好で煙草に火を点けた。
「あら、もう起きたの。」
くしゃくしゃになった髪を右手で掻き上げながら明美は言った。
「ごめん、起こしちゃったね。」
「いいのよ。今日何曜日?」
「今日は日曜日だけど、何か?」
「ああ、今日日曜日か。お店休みだ。それに友達が来る日だわ。何時、今。」
「10時10分頃だけど。」
「よかった。1時過ぎに友達が来る事になってんの。」
「じゃ、僕帰らなきゃまずいね。」
「いいわよ。いなさいよ。それに君の服、昨日の夜洗っちゃてるから、着る物ないし。コーヒーでも入れるわね。その前に一寸シャワーしてくるわね。」
七,八分して、明美は濡れた髪をバスタオルで丁寧に拭きながら、浴室から出てきた。僕はそのしぐさにたまらず、明美を抱きしめ、かなり激しくキスをした。 明美はかすかな抵抗を示しながら、その倍以上の反応で答えてくれた。小柄な明美を引きづる様に抱きかかえ、ベッドの上に押し倒した。バスローブの下は何も 着けていなかった事に、一層の刺激を感じながら。
「バカね。君も早くシャワーして来なさい。」
僕は照れ臭さと満足感が同居する中で、シャワーを浴びた。出てくると、着替えた明美がパンを焼いていた。僕はテーブルに出されたコーヒーとトースト、プラ ス目玉焼きを食べ、何時の間にか点けられたテレビに目をやりながら、小さな幸福を感じていた。大げさに言えば、人間に男に生まれてきて、よかったと。
「明美いるぅ?」
と言って、友達の雅子が一時少し過ぎにやって来た。簡単に自己紹介をしたが、それ以上は何一つ詮索される事はなかった。明美と雅子は新宿に買い物に行く約束をしていたようだった。
「僕失礼して帰りますね。」
「馬鹿ね。そんな格好じゃ外にも出られないでしょう。留守番させとくのもかわいそうだし…そうだ!いい考えがある。」
と言って、明美は雅子に耳打ちをした。
「君、身長いくら?体重は?足のサイズは?」
と、明美は妙な事を聞いた。
「雅子。悪いけど、この角を右に曲がって、二つ目の角を左に曲がった所に、売ってるから、適当なのを買ってきて、これサイフ。」
「OK!大体分かるわ、ウェスト72位かな、その体重じゃ。」
と、訳の分からない事を言い、一体何が始まるのか、不安になっていた。
「明美さん。何を企んでいるのですか?」
「いいのよ、君も一緒に新宿へ行くの、ショッピングに、但し、女装してね。女装してみたくない?面白い趣向になるよ、きっと。さあ、お化粧をしなくっちゃ。その前に顔を剃らなきゃね。」
「本気?やめてよ!そんな、格好悪い。第一服がない!ああっ!そうか!雅子さんが着るものを買いに行ったのか!もう参ったなぁ。」
「さあ、男らしく、じゃなかった女らしく、度胸を決めて。」
[もうやけくそだ]と、言われるまま明美の膝に頭を埋めて、顔を剃ってもらい、ファンデーションやら頬紅やらを塗り、アイシャドーやアイラインを描き、口 紅も付けて貰い、ビューラーまで使って、睫毛をカールしてもらった。最後に明美はドライヤーを使って、この時代流行っていた、少々長めの僕の髪を手早くブ ローした。
「はい、出来上がり。一寸鏡見て。案外きれいよ。ほらほら、ね。」
「私、きれい?」
と僕はおどけてみせた。(悪乗りだ。絶対母親には見せられない。)雅子が買ってきた、ブラウスを着、スカートをはいた。少し窮屈だったが、もうどこから見 ても充分[女]だった。明美の黒いパンストを履き、雅子が買ってきた靴を履いて、その辺を歩きながら、白鳥の湖を踊った。二人は笑い転げていたが、僕は逆 に落ち込んでいった。明美のバックを借り、三人でいよいよ外出する事になった。おじさんの店の前を通ったが、日曜日なので閉まっていた。足元がスウスウし て、頼りない感じがした。定期券を持っているのに料金を払うのは、一寸もったいない気がしながら、椎名町の駅で切符を買った。池袋に着くまで、誰もが自分 を見ているようで、落ち着かなかった。明美は、
「バカネェ。誰も君の事なんか注目してないよ。自分が思うほど、他人は関心ないわよ。少し背の高い女だなぁ、位しか思ってないよ。もっと、堂々としてなさい。」
と笑った。日曜日の午後の山手線は、結構空いていて座る事が出来た。僕は意識的に足を組み替えながら、明美の耳元に、
「明美さん、女に見えますかね?」
と、囁いた。
「見える。見える。充分見える。新宿にあるのよ、オカマバーが。何ならそこでバイトもしてみる?そこのママ勿論男だけど、よく知っているから、紹介してあげようか?」
「いいよ、それ程物好きじゃないから。」
当時は、オカマバーは新宿でさえ2,3軒しかなく、カルーセルマキが登場したり、ピーターがもてはやされるのも、2年くらい後の事である。新宿に着くと、 先ず高野で、生まれて初めてチョコレートパフェを食べさせてもらった。それから、伊勢丹で買い物をする二人の後に従った。二人はそれぞれ、僕の1ヶ月分の 生活費(35000円)の倍以上のお金を使ったようだった。荷物を持たされ、おまけに、[明美さん、足が痛いよ、靴づれしちゃって。]と、言う言葉にも、 [ふん、そう]と、ほとんど耳を傾けない様子で、次から次へと、本当に精力的によくしゃべり、よく歩く二人だった。途中でトイレに行きたくなり、何の意識 のないままに男性用に入り、用を足そうとして、チャックをと、思った瞬間、顔が赤くなった。周りを確かめ、あくまで平静を装いながら、隣の女性用に駆け込 み、ドアを閉め大きく深呼吸をした。
やっとの思いで、椎名町へ帰ってきたのは夜の7時を少し回っていた。
「ああ、楽しかった。雅子食事に行こうか。椎名町で気に入っているのは、あのトンカツ屋だけ。他は面白くも何ともない街。」明美はぶっきらぼうに言った。
「伊達君。服乾いているわよ。もう着替える?君も一緒に行こう。ああ化粧落とさなきゃね。こちらへいらっしゃい。どう?一日女性の感想は?結構面白がっていたじゃない。」
僕は自分が男だったのか、女だったのか、すっかり忘れていた。ただ、靴ずれの痛みだけが残っていた。明美の云うトンカツ屋へ行くとヒモチャンも好恵ママと一緒に来ていた。
「おお、明美。今日はどうしてた?そうか、買い物か、俺はこいつのお陰で、腰がガクガク。なあ、好恵。」
「バカア。やめてよ。こんなところで。」
と、好恵ママも満更でもなさそうに、じゃれている。結局ヒモチャンに奢って貰う事になったが、本当に美味しいヘレトンカツだった。ヒモチャンが言うのに は、ソースに美味しさの秘訣があり、ここの親父はけちで、俺達お客は勿論の事、従業員にも教えないそうだ。僕は、月に一度くらいはこの店のトンカツを食べ たいものだと、真剣に思った。


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第三章 その1

久しぶりな気持ちで、桜荘に帰ってみると従兄弟の浩一が、
「お前、何処に行ってたんや?おばさんから手紙がきてるぞ。」
小姑根性の目付きで僕に封筒を突き出した。浩一と僕とは家も近くだった事もあり、幼い頃からよく遊んだり、母方の実家では一緒になったりする事も多く、気 心はよく知れているつもりだった。でも、いざ同棲生活も3ヶ月近くになると、色々とあるものだと感じ始めていた。夫婦の離婚も以外とそんな処に原因がある のかも知れない、寝起きを共にすると云う事は、こう云う事なのかな、と思ったりもした。母からの手紙はありきたりの内容だった。父や妹の近況報告から始ま り、手紙も電話もしない僕を少し責め、夏休みになったら出来るだけ早く帰ってくるように、で締めくくってあった。封筒の中には、壱万円札が一枚同封して あった。女装して新宿の街を歩き回ったなんて、とても言えないし、もし母がこの事を知ったら反狂乱になるだろうなぁ、と深い溜め息を吐いた。
次の日、目が覚めると、昼の12時を少し回っていた。どれ位眠ったのか、計算出来なかった。勿論、浩一が何時出ていったのかも知らないし、必須科目のフラ ンス語の授業がある日だと云う事など、覚えているはずもなかった。このまま布団の中にいると、また寝てしまいそうなので、兎に角起きる事にした。歯を磨 き、顔を洗い、配達されたままになっている新聞に目を通しながら、明美との事や、新宿での事がすべて幻で、前世の出来事のように想えた。食事をするため に、おじさんとこへ降りていくと、光岡さんがいた。
「今日学校休み?」
「いいえ、唯何となく、行かなかったんです。」
「うん、そう。この間は面白かった?」
「ええ、まあ。始めてだったもので。」
「栗田さんには参ったよ。我が儘なんだから。伊達君、コーヒーでも飲みに行かない?ひまだったら。」
「ええ。」
と云う事になり、近くの喫茶店へ行った。光岡さんは28才だそうで、秋に銀座のギャラリーで、初めての個展の計画があり、今、制作中らしいが、思うように はかどっていないようだった。専門はポートレートで、特に女性なのだが、プロのモデルは一切使わず、素人の女性に限っているのだそうだ。いいと思う娘はな かなか承知してくれないし、取って欲しいと、言ってくる娘はいいのがいない、とぼやいていた。一枚の写真を仕上げるためには、少なくとも百回以上シャッ ターを切るのだそうだ。僕の頭の中には二人の女性が浮かんだ。一人は明美で、もう一人は柿沼百合だ。二人ともいい被写体になると、直感した。
「明美さんは、モデルとしてどうですか?」
「明美?ああ、ラビアンの明美ね。いいかもね。小悪魔的だし。頼んでみるか、今晩でも飲みに行って。」
「ヌードばかりですか?」
「別に裸にこだわってはいないよ。」
少し安心をした。明美は裸でもいいが、柿沼百合はいやだ、などと随分勝手な想像をした。(そうだ、今晩柿沼百合に電話しなくっちゃ。善は急げだもの)
薄暗くなって、僕は手許にありったけの拾円玉を掻き集め、連盟の名簿から、柿沼百合の電話番号を間違わないように書き移し、近くの公衆電話へ向かった。行 くと若い女性が電話をしていた。イライラしながら煙草を一本吸った。電話を終えた女性は、軽く僕に会釈をした。僕は数字を確かめるように、ゆっくりダイヤ ルを回した。
「もしもし、柿沼でございます。」
「柿沼さんのお宅でしょうか?」
「はい、さようでございます。」
「私中央大学法学部一年の伊達と申しますが、恐れ入りますが、百合さんはご在宅でしょうか?」
「百合でございますか?しばらくお待ち下さい。」
「…………………」
「はい、百合ですが。」
「柿沼さん?柿沼百合さんですか?」
「はい、そうですが?」
「私、先日、あの先週の土曜日、お華の連盟の会議でお会いしました、中央大学の伊達と申します。突然で申し訳ありません。」
「ああ、中大の方ね。代理出席の。」
(しめた。やっぱりあのスピーチが効いている)
「はい、代理の伊達です。」
「ウシマドとかの御出身の方ね。」
「はい。覚えていらっしゃいますか?」
「ええ、名前は覚えてませんが、面白い方がいらしたことは。」
「はい、ありがとうございます。名前は伊達と申します。」
「伊達さんね。それでご用件は何でしょうか?」
「はい、あのう、まことに突然で厚かましいのですが、今週の土曜日あたり、会っていただけないかと思いまして。ええ、一時間でも30分でも結構なんです。でも、できたら3時間位。」
「土曜日ね。何かあったかしら?少し待って下さる?」
「………………………」
「お待たせしました。いいですよ。」
「そうですか、本当に?」
「で、どうされます?」
「何時でも、何処へでも行きます。柿沼さんに合わせますから。」
「そうね。そう言われても、どうしましょう?うん……じゃ神保町の交差点ご存知?」
「ええ、知ってます。」
「その交差点から東へ二つ目の角を、南へ200メートル程行った処に、[メルローズ]と云う喫茶店があります。そこでどうですか?」
「いいです。メルローズですね。それで時間はどうされます?」
「そうね。授業が終わるのが12時15分だから、12時半には行けますわ。」
「はい、結構です。12時半、メルローズ、ですね。」
「でも、私、あなたの顔、悪いけど覚えてないわ。わかるかしら?」
「ええ、僕はよく覚えていますから、大丈夫です、その点は。それでは楽しみにしています。」
「はい、分かりました。では、失礼します。」
「おやすみなさい。」
「おやすみなさい。」
受話器を置くと、残った拾円玉が取り出し口に、ジャラジャラと落ちてきた。僕はそれを持ち帰るのも忘れて、心はスキップをしながら桜荘へ急いだ。


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第三章 その2

今日はその待ちに待った土曜日である。でもその前に、この一週間にあったことを記しておかねばならない。先ず火曜日には、池袋の西武デパートへ、母親から 送って貰った壱万円を持って、靴とマウンシングのスポーツシャツを買いに行った。もちろん今日の日のために。それから、先週の土曜日明美から貰った部屋の カギは、[そのまま持ってなさい]と云うことで、僕は気ままに、明美のアパートと桜荘を往復している。昨日の金曜日には、僕の、[明美さん、モデルになっ てあげなよ、綺麗なうちに。きっと記念になるよ。明美さんなら絶対素晴らしい作品が出来るよ。]と云う陰からの説得もあって、光岡さんが明美をモデルにし て、写真撮影をした。行きがかり上、僕は助手をさせられ、コウモリ傘のようなものを広げたり、カーテンのようなものを伸ばしたり、照明の調整をやらされた り、僕がお華を習ってるのだったら少しは花の事が解るだろう、と言って、花を買いに行かされたりした。明美も最初のうちは、裸になる事に少し抵抗を示した が、光岡さんの言葉の巧みさと熱意に負け、段々緊張も解けリラックスしていった。なるほど、下着を付けている時より、全裸の方が嫌らしさは感じなかった。 特に僕一人では持ち切れず、花屋の店員と一緒に運んだ山のようなかすみ草の中にうつ伏せになり、こちらを上目使いに見るポーズは、僕が見ても良いと思っ た。撮影は延々と5,6時間続いた。クーラーの良く利いた部屋だったが光岡さんは汗だくで、3台のカメラを使い、シャッターを押し続けた。鬼気迫るとはま さしくこうなんだ、撮られる方より、撮る方がはるかに大変だ、と云う事が解った。
「はぁい、終わり。おつかれさま。明美さん、ごくろうさん。」
と、光岡さんの声で僕は現実に戻った。光岡さんも普段の優しい目付きになり、僕達に労いのコーヒーを入れてくれた。
「君たちのお陰で、いい作品が出来そうだよ。特にかすみ草はいいアイディアだった。お礼に夕食を御馳走するよ。明美、今日店休みなよ。」
光岡さんは満足気にコーヒーを飲みながら言った。明美は、好恵ママに休ませて欲しい、と電話した。光岡さんに連れていって貰った所は、浅草の駒形と云う [どぜう料理屋]だった。どじょう料理、と聞いた時は、僕の田舎に行けばいくらでもいるのに、なんでわざわざどじょうを、と思ったが駒形のどぜう料理のフ ルコースの味は、今も僕の舌の一部分に残っていて消えない。どんな味かと問われても、この舌に聞いてくれ、としか答えようがない。特にどぜう汁は絶品だっ た。次に連れていって貰った処が銀巴里である。その名前を口にするだけでも、懐かしさで胸がわくわくする。生まれて初めて、生のシャンソンを聞きながら、 これも又生まれて初めてワインを口に含んだ。今から思えば、前座兼司会をしていたのが、金子由香利だったように思う。丸山明宏も2,3曲を語るように歌っ た。僕にとって別世界もいいとこだった。明美も頗る上機嫌で、シャンソンは別として、駒形へは一度行ってみたいと思っていた処らしくて、[秋の写真展が楽 しみだ。きっと見に行くから]とはしゃいでいた。椎名町に戻ったのは夜の11時頃だった。付け加えておきたいのは、その間の移動が全てタクシーだった事。
神保町の交差点に着いたのは12時少し前だった。メルローズと云う店の場所を確認してから、時間つぶしに古本屋へ入ってみた。学生達に混じって柴木がいた。
「やぁ、伊達、珍しいなぁ、本屋になんか来たりして。雀荘へ行かなくていいのか?」
「今日は皆来てないよ。それより、勉強のほう進んでるかい?俺が言うのもおこがましいが。司法試験目指してんだろう?お前。」
「いろんな先輩がいるよ、真法会には。でも卒業して3年が限度だな、司法試験は。それでダメなら、諦めたほうがいいよ。しみじみそう思うよ。大学は卒業し ても、真法会は卒業できない先輩が沢山いるもん。大きな声では言えないが、ああはなりたくないね、俺は。」
「じゃあな、せいぜい頑張れよ。」
「ああ、一度遊びに来いよ。」
「そのうち行くよ。」
(俺は忙しいんだ。悪いけど、青い顔したお前には付き合う暇などないんだ)などと、うそぶきながら目的地のメルローズに、12時半きっちりに行った。店内 は明るく、陽射しが溢れそうだった。客席を見渡したが、柿沼百合はまだ来ていない様子だった。入り口のよく見えるところに席を取った。ウェイトレスが、水 と灰皿にマッチを入れて、テーブルに置いた。
「何にいたしましょう?」
「悪いけど、もう一人来るから、それからにしてくれる?」
(本当に来るのだろうな)自信はなかった。煙草に火を点け、丁度一本目を吸い終わった頃に、店内が一層明るくなった。柿沼百合の登場である。僕はさっと立って、
「柿沼さん、こちらです。」
「ああ、貴方だったわね、伊達さん。梅雨の最中にしては、とってもいい天気ね。」
クリーム色のブラウスに、薄い空色のスカート。短すぎるでもないスカートからは、きれいなひざ小僧が出ていた。肩まで垂れた長すぎない髪。しているかして いないか解らない化粧。柔らかそうな革のバック。よく磨いてある靴。透明なマニキュア。彼女の何もかもが真珠のような深い上品な光沢を放っていた。
「何にいたしましょう?」
邪魔なウェイトレス。
「伊達さん、何にしますか?ここのピラフ、美味しいのよ。私、おなか空いたわ。ピラフとカニサラダいただけます?貴方は?」
「そうですか。ここのピラフ美味しいのですか。それでは僕もピラフにします。それにライスとね。」
ウェイトレスが[くすっ]と、笑ったような気がした。
「伊達さん。ピラフとライスですか?本当に?あの、ピラフは、チャーハンの様なものなんですけど。」
と、小声で百合が囁いた。(しまった!ピラフとは焼き飯の事か!)
「いや、ごめんごめん。ジョーク、ジョーク。貴女と一緒でいいですよ。」
何とかこの場は切り抜けたが、冷たい汗が身体中に、特に脇の下から滴り落ちるのが解った。クーラーがよく効いていると云うのに。僕はピラフと云うものを、 聞くのも食べるのも初めてだった。百合推薦の美味しいはずのピラフの味も分からないまま、とにかく食事は終わった。
「あの、どの位時間ありますか?」
「余り遅くまでは困りますが。」
「そうですか。実は、柿沼さんと是非見たいと思っていた映画があるんですが、いかがですか?」
「いいですよ。なんていう映画ですか?」
「ゴーンウィズザウィンド。風と共に去りぬです。ビビアンリーの。」
「あらいいわね。私も前から見たいと思ってた映画よ。で、どこでやってるんですか?」
「有楽町でやってます。時間は正確には分かりませんが、多分2時半位からだったと思います。」
「そう、まだ1時間はあるわね。じゃあ、ゆっくり歩いていきましょうか?」
「歩いてですか?随分遠くありません?」
「歩くのお嫌い?3~40分位で行けると思いますよ。それに、久しぶりのいいお天気だもん。」
どこをどう歩いたか忘れてしまっているが、かなり長い間、皇居のお堀端を歩いた事だけは覚えている。
「夢のようです。貴女とこうしてお堀端を歩けるなんて。他の人達が、仲良く歩いているのを見ては、いつも羨ましく思っていたんです。」
「まぁ、口がお上手ね、伊達さんて。」
「いいえ、本当です!本当ですよ。」
「じゃ腕でも組みますか?」
「ええもう、光栄です。でも、一寸恥ずかしい気もしますが。」
「じゃやめます。」
「そんな!つめたいこと言わないで。」
柿沼百合は、僕の新品のシャツに軽く手を触れて、にっこり微笑んだ。僕も勿論にこっと(本当はでれっとかも知れないが)笑い返した。少し見下ろすような態 勢(多分彼女の身長は1メートル57センチ~58センチ位だと思うが)で、僕の左後ろ3センチあたりに柿沼百合を感じる事が出来た。透き通るような肌の白 さを、胸元に見ながら、世界有数のプレイボーイを気取っていた。
お堀端から一般道路へ出たところで、百合は腕を組むのを止め、やや後方からこの角は右とか左とか、道順を教えた。僕の時間的な物差しからすると、あっとい う間に有楽町の映画館に来ていた。時計を見ると40分近く経っていた。百合の方が金持ちだろうと思うが、僕は入場券を二枚買った。20分程ロビーで終わる のを待って場内へ入った。観客のほとんどはカップルだった。[よかった、一人で観に来なくて]と思いながら周りを見たが、百合より美人はいなかった。ビビ アンリーがアトランタの荒野の中で、キッ、と将来を見据える姿が、大写しになって終わったのは、5時頃だった。近くの喫茶店に入って、僕はコーヒーを、百 合はミルクティを頼んだ。僕は、切り出すべきかどうか迷っていた。
「あのう、大変言いにくいんだけど。」
「なぁに?」
「あの、やっぱりいいです。」
「いやぁね。言い出しといて、はっきり言いなさいよ。なぁに?」
「じゃ言います。僕の知っている人に光岡さんていうカメラマンがいるんです。それでね、その人が今年の10月に初めての個展を開くそうなんです、銀座で。」
「それで?」
「それでね、まだ思うように制作が進んでないんです。これは光岡さんにも話してないんですが、貴女がもしよかったら、モデルになってあげたらどうかと思っ て。ええ、もちろん裸じゃありません。普通でいいんですが。きっといい写真が撮れると思うんです。」
「私なんかダメよ、スタイル悪いし。それにそのカメラマン……」
「光岡さん。」
「そう、光岡さんが気に入るかどうか分からないし。自信ないわ、モデルなんて。」
「それは僕が保証します。絶対良い作品が出来ると思います。この間、いえ昨日撮影の助手をしたんです。それで何となく解るんです。貴女ならきっと。」
「そう言われても困るわ。それにそういうことは両親にも話をしないと、私一存では。」
「それじゃ、一度御両親に相談してみて下さいよ。光岡さんには僕の方から話しておきますから。貴女が沢山の人に見られるのは、少々シャクだけど。いい展覧会になると思うな、僕は。お願いしますよ。」
「わかったわ。じゃあ一度話してみます。ダメだったら諦めてね。でも、割とミーハーね、伊達さんて。」
有楽町から山手線で東京駅まで行き、そこから中央線に乗り換え、名残惜しさを携えて、僕は新宿で降り、また山手線で池袋まで行き、西武線で椎名町まで帰ってきた。記念すべき最初のデートはこうして終わった。


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第三章 その3

早速光岡さんに話すと、早い方が良いと言う、今から電話しろと言う、撮影は明日か明後日にしようと言う。僕は2~3日のうちには必ず連絡を取るから、待っ てくれと、なだめた。百合からの返事はOKで、両親も自分自身の問題だから自分で判断するように、との事だった。光岡さんの希望通り、ウィークデー、確か 次の週の水曜だったと思うが、東小金井市の駅前で、朝7時に待ち合わす事になった。朝の7時に東小金井まで行くためには、6時には椎名町を出発しなければ ならない。僕はとてもその時間に間に合うように起きれないから、前の夜は光岡さんのマンションに泊めて貰った。翌朝、誰かから借りてきたライトバンにいろ いろな器材を積み込み、僕は眠い目をこすりながら、助手席に乗った。
「今日はあいにくの雨ですね。こんな日でも撮影するんですか?」
「しょうがないだろう。これもまたいいんじゃないか。」
「どこでするんですか?」
「うん、君からその娘の話を聞いて、イメージにぴったりの所が武蔵野にあるんだ。」
東小金井の駅前には7時少し過ぎに着いた。柿沼百合は、白いレインコートに、白い雨靴を履いて、薄いピンクの傘をさし、待っていた。駅はサラリーマンの出勤も始まっており、朝の慌ただしさが感じられた。
「光岡さん、こちら柿沼さんです。」
「おはようございます。柿沼です。伊達さんに乗せられちゃって。」
「おはよう。光岡です。今日はよろしく。」
予想通り気に入ったようで、もう光岡さんはプロの目付きになっていた。
「どうぞ、乗って下さい。伊達君、魔法瓶にコーヒーが入ってるから飲んで貰って。君もよかったらどうぞ。(だって)伊達君からは聞いていたが、私の想像通りだ。」
「僕の目に狂いはありませんよ、光岡さん。」
光岡さんは、車を30分程走らせた処で止め、僕達を残してどこかへ行った。15分位して光岡さんは戻ってきた。
「さあ、はじめようか。降りて。」
「どこへ行くんですか?」
「悪いけどちょっと歩いてもらうよ。伊達君その器材を持って。」
楢や欅が入り交じった雑木林の中を、僕と百合は光岡さんの後ろに従った。まだこの辺りはわずかに原生林が残っている。6月の終わりにしては肌寒く、三人の吐く白い息が、朝露の中に溶けていった。
「よし、この辺でいいだろう。」
光岡さんは立ち止まって煙草に火を点けた。僕もショートホープに火を点けた。二人の吐いた煙が霧を濃くしていくようだった。雨音もかき消され、リンリンと した空気が漂い、地球上に三人だけが取り残されているようだった。煙草の吸いがらを靴の裏でもみ消し、
「それじゃあ柿沼さん、先ずその木の横に立って。そうそう、そんなふうに。普通でいいです、普通で、ごく普通でね。」
と言いながら、光岡さんは既に、十数回シャッターを切っていた。
「はあい、歩いて、こっち向いて、はい歩く、止まって、こっち向いて、こっち向いて。いいねその調子。伊達君、そのカメラこっちによこして、これにフィル ム入れて。傘、こっちによこして、少し走って、髪をさわって、そうそう、はい立ち止まる。いいね、笑って、自然に笑って、自然にね。」
次第に道のない、笹が密生している方へ移動していく。
「レインコートを脱いで、手に持って、そう歩いて、いいから好きなように動いて、よおし、休憩。傘!伊達君持ってきて、彼女に渡してあげて。」
光岡さんは黙って煙草を吸っている。僕はどちらにも声をかけ辛くなっていた。煙草の煙と、吐く息の白さで会話をしている。
「さあ、もうひと頑張り。始めるぞ。コートを伊達君預かって。」
カシャカシャカシャ、シャッターはひっきりなしに押されている。
「靴脱いで、そう少し痛いが我慢して。よし走って、止まって、歩いて、こっち見て。そのストッキング邪魔だなぁ。それも脱いで。」
「光岡さん、やり過ぎだよ、それは。」
「黙ってろ!お前は。脱いで。さぁ早く。」
百合は一瞬躊躇したが、キリッと目を据え直し、木陰へ行き、ストッキングを脱いだ。素足が色っぽい。とてつもなく色っぽい。もう僕はやけくそになってい た。雨に濡れた白いブラウスは透けて、下着がくっきり見える。薄い空色のフレアスカートも雨を吸い込み腿のあたりが、ぼんやり見える。もうこれは三人三様 の戦いだと思った。僕の大事にしていた、大切な宝物が壊れていってしまうようだった。(なるようになれ、これで俺と百合がダメになろうと、これっきりにな ろうと)
「お疲れ様。ご苦労さん。」
光岡さんに笑顔が戻った。車を止めていた場所まで戻り、光岡さんは、用意していたバスタオルを百合に渡し、濡れた髪を拭くように言った。その仕種も色っぽ い。光岡さんは、百合に、車のヒーターをかけておくから、濡れた身体を乾かすように言い、僕達は少し車から離れた。ヒーターが効きだすと、窓ガラスは曇っ て車内は見えなかったが、僕は、百合が行っているだろう、様々な光景を想像した。香りのなくなった冷めかけたコーヒーを飲みながら、光岡さんの横顔をうか がった。
「良い作品が出来そうですね。」
「うん。」
光岡さんは満足そうに煙草を吸った。僕は、この事で結果的に、百合を失ったとしても、自分が招いた事なので、光岡さんを恨んではいけないと思った。小一時 間ほど経ってから車の窓ガラスをコンコンと叩いた。百合は窓を開け、にっこり微笑んだ。
「ごめんね。こんなにハードになるとは思わなかったもんで。」
「いいのよ。OKしたのは私だし、以外と楽しかったわ。大変ね、モデルさんて。」
百合の言葉を聞いて、少し救われた気分になった。光岡さんの運転する車に乗って、東小金井駅まで百合を送っていった。百合は、何事もなかったように、軽く 会釈をして、去っていった。もっと見送っていたい僕の気分を無視して、光岡さんは勢いよく車をスタートさせた。
「もう一度撮りたい娘だね、彼女は。但し、今度は裸をね。」
と光岡さんは言った。
(いい加減にしてよ。僕の気持ちも知らないで。)


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第三章 その4

アパートへ帰り、着替えをし、遅い昼食をおじさんの処で済ませ、部屋でうたた寝をしていた。背中にぞくぞくとした悪寒が走り目が覚め、時計を見ると午後の 3時を回っていた。このままぼんやりしていると、風邪を引きそうなので、とりあえず外に出て何かをしようと思った。鉄製の外階段を降りながら、無性に明美 に会いたくなった。僕は明美のアパートまで足早に歩き、
「明美さんいる?僕です。伊達です。」
とノックしながら大きめの声で呼んだ。
「ああ、伊達君、ちょっと待って。」
ドア越しに懐かしくさえ思える明美の声がした。ドアが開けられ上がろうとすると、
「今日は帰んなさい。」
と、突っぱねるように明美が言った。
「何故?誰かいるの?」
「いやぁね。誰もいないわよ。それよりね、今度の日曜日デートしない?」
「デート?」
「そうよ、デートよ。今まで君とした事ないでしょう。今度君が来たら言おうと思ってたの。」
「いいね。面白いね。で、何処へ行く?」
「君自分で考えなさいよ。」
「うん……豊島園なんかどう?」
「いいわね。君に任せるよ。しっかり考えておくのよ。」
「じゃ、日曜日11時、池袋の改札口。で、どう?」
「馬鹿ね。豊島園に行くんだったら、わざわざ池袋まで行かなくてもいいじゃない。」
「僕に任せるって言っただろう。それに、その日までに気が変わるかもしれないし、11時だよ。起きれる?遅れないでよ。じゃ、帰る。」
僕は今、10時50分、池袋の改札口の柱にもたれて明美を待っている。(多分遅れるだろうな。派手な服を着てくるんじゃないかな。化粧は少し控え目にして きて欲しいなぁ。お金は僕が払うのかな、そうとしたら6千円位しかないのでどうしよう。)などと思っていると、僕の目の前に見た事もない女性がやって来 て、
「やあ、待った?ぴったりでしょう、11時。」
「………………」
「やあね、あたし、明美よ、伊達君。」
「えっ!明美さん!うそ、全く見違えちゃった。本当だ、明美さんだ。」
「どう?女子大生に見える?」
化粧は口紅くらいしかしてない感じだったし、長くて染めていた枝毛の多い髪は、肩のあたりできれいに切り揃えてあり、君が緑の黒髪、とまではいかなくて も、充分黒髪だし、着ている服は、サーモンピンクのクロコダイルのスポーツウェアで、膝が少し見えるくらいの丈のスカートは薄い紺色、ストッキングも白の 網の目になったものだった。マニキュアは、透明に近いピンクで、爪も短く切っていた。
「切符買ってくる。」
僕は相当張り切っていた。定期券があるのも忘れて、豊島園まで二枚買った。着くと家族連れとかカップルが大半だったが、何組かは女同士、男同士のグループ もいた。僕達は彼らの嫉妬深い視線を楽しみながら、腕を組んで列の中に並んで、いろいろな乗り物に乗った。明美が気に入ったのは、当時としては珍しかった ジェットコースターだった。暗闇を出入りしたり、水しぶきを上げたり、垂直に落ちるのかと思われるような、上下動を繰り返している間中、明美はキャアキャ アとはしゃぎながら、僕の腕にしがみついていた。僕はというと、もう目をつぶりっぱなしたった。明美はもう一度乗りたいと言ったが、本当は僕は怖かったの だが、待つのが嫌だと言った。ソフトクリームを食べたり、スパゲッティを食べたり、コーラを飲んだりして、あっと云う間に夕方近くになった。
「ねえ、これからどうするの?」
と明美が聞いた。
「別に何も考えてないんだ。どうする?」
「新宿へ行かない?ゴーゴーでも踊りに。」
「うん、いいよ。僕は行ったことはないが、明美さんさえよければ。」
と云うことになり、ゴーゴー喫茶(決してディスコではない)へ行くはめになった。
新宿駅の近くで軽い食事を取り、明美のエスコートに従いゴーゴー喫茶に着いた。入り口でチケットを2枚買い1600円払った。その頃から、けたたましい音 は聞こえていたが、室内はもう僕にとっては騒音以外の何物でもなかった。ボーイが、飲み物は何にするのかと大声で尋ねた。勝手が解らない僕は、明美の方を 見た。明美はジントニック、と言ったので、僕も同じ物を頼んだ。ジントニックと云う知らない飲み物が運ばれてきたので、口にしてみたが松脂の様な味がし た。まだ時間が早いせいもあったのか、店内には20人位の若者がいて、そのうちの半分程が手足を器用に動かして踊っていた。松脂を舐めながら僕は煙草に火 を点けた。(いつ出て行こう)そればかり考えながら。
「ねぇ、踊らない?」
「僕は知らないから、いいよ。どうぞ。」
「簡単じゃない。リズムに合わせて、体を動かせばいいんだから。行こうよ。」
「いいよ、少し見てるよ。」
明美は群れの中へ入り、知らない若者としゃべりながら、腰や腕を振っていた。(ちっとも色っぽくない)30分程して明美は「ああ、疲れた。」
と言って、やっと僕のところへ帰ってきた。残った松脂を一気に飲み干し、
「行こうよ、教えてあげるから、ね。」
と、僕の腕を引っ張って群れの中へ連れていった。得意の居直りしか僕には残されていなかった。
「上手じゃん。そうそう腰はこういうふうに、腕はこうね。足はそれに合わせて、自分の感じるままにやればいいのよ。格好つけないで。」
怒鳴るように、ゴーゴーの先生はのたまう。僕は疲れたので壁にもたれて、少し休んでいると、
「今度は誰でも出来るよ。おいで。」
と、僕を誘った。騒音は急にスローなテンポに変わった。
「チークなのよ。ラストの頃になるともっと凄いのよ。ほとんどキスをしてるわ。」
明美は、僕の首に両腕を巻きつけた。僕も回りを見習って、明美の腰に両手を回した。
「あっ!大きくなった!」
「バカァ」
僕は明美のおでこにキスをした。何組かのカップルは、唇を重ね、目をつむり、全く動かない状態になっていた。スポットライトが乱舞しだし、元の騒音に変 わった。僕達も離れテーブルに戻った。明美はボーイを呼び、レスカを二つ頼んだ。
ゴーゴー喫茶を出たのは、9時を過ぎていた。明美は小さな声で、
「ねぇ、ホテルへ行かない?」
「ホテル?」
「あれよ、あそこ。」
見上げると、怪しげな色でクィーンと描いてある、ネオンサインが目に映った。明美は僕の左腕にぶら下がるようにしていた。明美の頬にネオンサインの灯りが 反射した。僕の胸は万引きする瞬間のような緊張感で、ドキドキしていた。ドアは自動になっており、入ると胡散臭そうな目付きをしたおばさんがいて、部屋ま で案内された。部屋の壁の色は赤紫色で、ほの暗い照明は、陰湿な雰囲気をかもし出していた。おばさんは、[ごゆっくり]と言い、舐め回すように僕達を見な がら、テーブルにお茶を出した。襖を開けると、布団が二組み敷かれていた。上布団は、朱色の品のない柄で、敷布団は僕のよりもひどいせんべい布団のような 気がした。
「お風呂に入る?それともシャワー?」
「シャワーでいいよ。」
「じゃ先にシャワー浴びてくるね。」
手慣れた感じで事を進める明美に、嫉妬を覚えた。僕は段々サディスティックになってきた。僕は明美を追うように裸になり、浴室へ駆け込んだ。シャワーをし ている明美を後ろから羽交い締めのような格好で抱き締め、激しく唇を吸った。体も拭かず、シャワーも止めず、そのまま明美を抱きかかえ、布団の上へ押し倒 した。いつになく激しく時が流れた。明美は裸のまま煙草を取りに行った。うつ伏せになり、火を点けた。一本を僕に渡し、明美も煙草に火を点けた。
「ねぇ、伊達君。もし私が居なくなったらどうする?」
と呟いた。
「必死に探すよ。」
「嘘!」
僕の言ったことが嘘なのか、居なくなるのが嘘なのか、僕は解らなかったし、詮索もしなかった。
「明美さん、ここの払いいくらぐらいかな?」
と僕が言うと、
「これで払っときなさい。」
と言ってバックから壱万円札を出し、僕に渡した。それから一時間ほどして、受付で支払いを済ませ、
「これ、お釣。」
と返そうとすると、
「いいわよ。デート代の足しにしときなさい。」
と受け取らなかった。明美との最初の、しかも最後になってしまったデートは終わった。


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第四章 その1

2~3日して百合に電話をし、デートの約束をした。百合に又ミーハーだと笑われそうな気がしたが、前から一度はデートの待ち合わせ場所にしたいと思ってい た、渋谷の忠犬ハチ公前を僕は指定した。会ってみると、百合はこの間のことは全然気にしていない様子だった。百合の知っている青山の店で、初めてピザと云 うものを食べた。ナイフもフォークもないし、ましてや箸もない。どうやって食べるのか、僕は分からなかった。ピラフ事件のこともあるし、百合が食べ始める まで待った。
「こうやって、手で食べるのよ。ピザの本当の食べ方は。」
と教えてくれた。店内はほの暗かったが、清潔な空気が流れ、誰もが軽やかなジャズの生演奏を快く感じながら、思い思いの会話を楽しんでいた。
「伊達さん。明日の日曜日、何か予定あります?」
「別に、何もする事はないけど。」
「よかったら私の家へ来ませんか?」
「柿沼さんの家へですか?」
「いや?」
「いやじゃないけど、またどうして?」
「ええ、両親にこの前の事や、あなたの事を話すと、面白そうな人だから、是非会ってみたいって言うの。明日なら丁度父もいるから、11時頃東小金井の駅で待ってるわ。」
百合の両親に会うと云う展開は、予想もしていなかった、困った事になってしまった、などと思っているとなかなか寝つかれなかった。
次の日、いつになく早く目が覚め、少し緊張気味で駅に着くと、改札口のところで小さく手を振って百合は待っていた。
「おはよう。」
「おはよう。僕何だか緊張するな。」
「大丈夫よ。余り固くならないで。」
いつもよりゆっくりめに歩いたが、7~8分で百合の家へ着いてしまった。
「ここよ、ここが私の家よ。」
見ると、当時としてはモダンな感じの、外壁は白いスタッコ風の吹き付けがしてあり、屋根はモスグリーンのカラーベーストで葺かれていた。庭は手入れが行き 届いており、芝生もよく刈り込んであった。その庭に張ってあるゴルフのネットの練習場で、中年の紳士が中学生か高校生位の男の子達に、和やかに教えてい た。百合が木製の彫刻が施してある玄関ドアを開けた。案内されて僕が中に入ると、
「こんにちは、百合の母です。お話は百合から伺っています。どうぞお上がりになって。」
丁寧に百合の母親が挨拶をした。
「こんにちは、伊達と申します。おじゃまします。」
僕は応接間に通された。長く感じられた一人だけの時が過ぎ、その後ろに、さっき庭で見た紳士も一緒に入ってきた。(親父だ)
「父です。こちら伊達さん。伊達省吾さんです。」
と百合が紹介をした。
「初めまして、百合の父です。」
「初めまして、伊達です。今日はお言葉に甘えまして、おじゃましました。」
「どうぞ、どうぞ、よく来てくれました。楽にして下さい。」
そう言って、親父は僕の向かいのソファに腰をかけた。(楽になんかなれっこない。品定めされているようで)
「伊達君は中央の法科だそうだね。」
「はい。」(来るぞ、来るぞ)
「将来はどうするのかね?弁護士か検事にでもなるのかね?」
(ほら、やっぱりきた。中央の法科だと全部弁護士か検事になると思っている)
「いえ、とても難しくて無理です。」
「中央には真法会があるだろう。入っているのかね?」
「いいえ、僕なんか真法会に入る試験にも合格しませんよ。ましてや司法試験なんて、とても、とても。」
「僕の部下にね、中央の法科出身の奴がいてね、彼は真法会にいたと言ってたから、それで知っているんだけど。なかなか難しいらしいね、司法試験は。3年で 彼、諦めて就職して、うちの会社に来たって言ってたよ。いえね、僕は三友商事に勤めているんだけど。」
「三友商事ですか!すごいですね。」
「いや、大したことないよ。図体は大きいが一つの事業部の中に入ると、中小企業よりひどいね。今日は久々の休みだよ。ねえ百合。」
「そうね、日曜日でもほとんどお仕事か、ゴルフだものね。それに転勤も多いし。」
「じゃ、ごゆっくり。僕はもう少し息子達をしごいてくるよ。」
と、去っていった。僕は待ってましたとばかりに煙草に火を点け、深く吸って勢いよく吐いた。お昼はお寿司を、多分上等のお寿司だったのだろうが、僕は、弟 達のジェラシーを斜め右横から感じながら、育ちの違う両親に気を遣いながら、百合の心を探りながら、食べた。しばらくして紅茶とケーキが出され、いただい ていると電話のベルが鳴り、母親がとった。
「はい、柿沼でございます。主人でしょうか?しばらくお待ち下さい。あなた、会社からお電話です。」
父親は5~6分程話していたが、電話を切り、
「おい、支度をしてくれ、会社へ出掛けてくる。伊達君せっかくだけど、失礼するよ。ゆっくりしていって下さい。」
と、慌ただしく奥の方へ消え、程なく玄関から出て行く様子が伺えた。時間を持て余し気味だった僕は、3時前に失礼する事にした。駅までの道は分かっている から、と言ったが、母親は百合に送っていくように言った。
「柿沼さん、今日はどうも御馳走になりました。ところで、男友達はいつもああやって、家の人に紹介するんですか?」
送ってもらう道すがら、僕は百合に尋ねた。
「いいえ、あなたが始めてよ。どうして?」
「いえ、一寸聞いてみただけです。」
池袋までの切符を買い、改札口で百合と別れた。僕は、百合の視線を背中に感じていたが、意識的に後ろは振り返らなかった。階段を上り、プラットホームに出 た。[今からどうしよう?そうだなあ、柴木んとこへでも行ってみるか、あいつは中野に住んでたし、丁度いいや、一度来い来い、言ってたし。]と思い、以前 もらってサイフの中に入れていた、柴木の住所のメモ書きを頼りに、中野で途中下車をした。中野の駅員に大体の場所を尋ね、その辺の煙草屋へ寄って詳しく聞 いた。柴木の住む[ときわ荘]は、外観だけ見ると、とても人が住んでいるような建物ではなかった。二階の12号室が彼の部屋だった。ノックをすると、
「開いてるから、どうぞ。」
と言う声がした。
「おお、伊達。どうした、ま、入れよ。」
「一寸、ぶらっと来てみたんだ。それに、前から一度行こうと思ってたし。」
「よく来たなあ、お茶でも入れてくるよ。その辺に座ってくれ。」
と言って、柴木は廊下にある共同炊事場へ行った。どこに座ればいいんだ、部屋の中央にホームゴタツが一つごろっとあり、辺りは本の山である。4帖半の部屋 は、昼間だと云うのに、電気を点けないと足を取られそうになる。
「おい、飲めよ。」
柴木はお茶を僕に出した。不潔そうで余り気が進まなかったが、せっかく入れてくれたんだし、一口飲んだ。予想外に美味しい日本茶だった。
「お茶だけは贅沢しているんだ。美味しいだろう?茶菓子でもないのか?」
「ああ、ごめん、ごめん、気が利かなくて。ところでお前、この本全部読んだのか?」
「ほとんど読んだかな。本は親友だからな。読んだからって捨てられないし、たまっちゃうんだ。お前はどうなんだ、今、どんな本読んでる?」
「俺?読んでないよ、全然。」
「お前、一体大学へ何しに来たんだ。お前も大学へ入るのが目的だった口か?」
「そういう訳でもないが、色々と忙しくてね。この、ジュリストって雑誌、沢山あるが、どんな本?」
「本当に知らないの?」
「うん、知らないよ。」
「情けないなあ。ジュリスト知らないなんて。本当に中央の法学部の学生かよ!この本はだな、いろいろな裁判の判例が載っていて、それについて学者が、様々な観点から解説している月刊誌だよ。」
「ふん、そうか、面白そうだなあ。」
柴木はあきれ返っていた。我妻栄の民法全集もある、専門書だけではない、歴史書もあれば、推理小説もある。文芸書もある。その他に彼は落語も聞きに行け ば、歌舞伎も観るし、コンサートも聴きに行くそうである。僕は、落語は興味があるので、一度末広亭か、鈴本に連れていってもらう約束をした。柴木は人間 は、5時間以上眠ってはいけないのだ、と言い、この本でも読め、と3冊の本を貸してくれた。そのうちの一冊[国盗物語]だけは読んだが、他の二冊は開きも しなかった。柴木に返すタイミングを失い、今も僕の手許に残っていて、その本を見る度に、柴木の事を思い出す。柴木は、中野の駅まで僕を送ってくれ、駅前 のラーメン屋で、ラーメンライスを食べ別れた。


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第四章 その2

何事もなく一週間が経った。この前の日曜日、百合の家へ行った帰り、駅までの道すがら、
「ねえ柿沼さん、一つ提案があるんだけど。」
「なあに?」
「毎土曜日を二人のデート日にしたいなあ、と思っているんだけど、ダメかな?」
「いいわよ。で、どうするの?」
「例えば、今週の土曜日なら、今ここで、時間と場所を決めておいて、後はその都度、次の土曜日は何処で、何時、と云うふうにすればどうかな?」
「なるほどね。この土曜日はどうするの?」
「そうだな、新宿西口、1時半ではどう?」
「新宿西口、1時半ね。OKよ。」
僕は、1時半少し前に西口に行った。百合はもう来て待っていた。高野でお茶を飲みながら、百合は、
「伊達さん、あれから直ぐに連絡したい事があったのよ。」
「なあに?」
「私、貴方に連絡取りたい時、どうすればいいの?電話はないの?」
「そりゃそうだな。僕は連絡取れるけど、君は取れないものね。一週間の内には、お互い都合が悪くなる事だってあるものね。ごめんごめん。急な時は一階の食 堂のおじさんとこへ電話して貰っていいですよ。番号わね、ええっと、…548の1895。」
「わかったわ。548の1895ね。手帳に書いておくわ。」
「ところで、なあに、話って?」
「それがね、父の転勤が急に決まっちゃって。」
「ふうん、どこへ?」
「遠いの、外国なの。ニューヨーク支店。」
「ニューヨークか、かっこいいなあ。」
「なに言ってんのよ、家族は大変なのよ。父の会社はね、国内は構わないんだけど、海外は単身赴任はダメなの。弟達はこの夏休みの間に向こうへ行って、ハイ スクールの入学手続きをするそうよ。私も母もそのうち、ニューヨークへ行かなければならないの…」
「そのうちって、いつ頃?」
「はっきりは分からないけど、私は、大学を卒業するまで日本にいたいのだけど、そうも言ってられないらしいの。早ければこの秋、遅くても来年の春には…母 だけ向こうへ行って、私一人残ってもいいんだけど、それは父も母も反対しているし……」
その時僕は、余り事の重大さを認識していなかった。
「ニューヨークか。僕も付いていこうかなあ。大学なんてやめちゃって。」
「なにのんきな事言ってんの。ところでもうすぐ夏休みでしょう。どうするの伊達さんは?」
「どうしようかな?全然考えてないんだ、田舎へ帰ってもしょうがないし、バイトでもしようかと思ってるんだ。」
それから、僕達は、映画を観て、又お茶を飲んで別れた。
椎名町のアパートに帰ってみると、浩一は旅支度をしていた。
「どうしたんだ。どこか旅行にでも行くのか?」
と尋ねると、明日、田舎に帰るのだ、と言う。授業も後ほとんどないし、帰って田舎でバイトをするのだそうだ。[お前はどうするのか?おばさん(僕の母)に どう言っておけばいいのか?]などと聞くので、[そのうち帰る。適当に言っといてくれ。]と答えた。お湯を電気ポットで沸かしインスタントコーヒーを飲み ながら夕刊を読んでいると、戸がガラガラと開いて(カギなどかけたことがない)猪山が入ってきた。
「おお、猪山久しぶり。元気か?コーヒーでも飲むか?」
「うん、もらう、もらう。お前達どうするん?夏休み。わいは帰っても邪魔者やさかい、こっちでバイトしよう、思うとんやけど。」
「浩一は明日帰るらしい。俺はまだ何にも決めてないけど、ええバイトあるのか?」
「そんなら、わいと一緒にせえへんか?ええとこ探しとんや。」
と云う猪山の話を聞き、早速次の日面接に行く事にした。そのバイト先と云うのは、僕も時々行った事がある、名曲喫茶ウィーンだった。簡単な面接を受け、よ かったら今日からでも働いてほしい、と言うのでそうすることにした。ボーイ服を着せられ、オーダーを聞いたり、ドアボーイをしたりで、結構きつく、終わる 頃には、足がパンパンに張っていた。それでも当時としては、時間給270円は魅力だったし、ウェイトレスの明治から来ている慶子や、早稲田の晶子達との会 話も楽しかったし、一週間もすると三本の指でトレイが持てるようになったりで、結局一ヶ月余り続けた。唯一つ気に入らなかったのは、バーテンが威張り散ら すことだった。ウィーンは地上6階、地下2階になっていて、ツウフロア毎に一つの調理場があり、バーテンが一人か二人いる。そのバーテンが曲者だった。声 が小さかったり、態度が少し悪かったりすると、ねちねちと小言を言う。素直に[ハイハイ]と聞いておけば良いのだが、言い返そうものなら、僕達ボーイや ウェイトレスが伝えたオーダーをなかなか作ってくれず、お客には[まだか]と、文句を言われるし、散々なめにあった。余りひどかったので、遅番の時、終わ るのを見計らって、掛け合った。あわや殴り合いのケンカになりそうになった時、1階にいたリーダー格の、新さんと云うバーテンが中に入り止めてくれた。そ れを契機に僕とその新さんが仲良くなったものだから、他のバーテンも僕を苛めなくなり、居心地も良くなった。このバイトの楽しみの一つに閉店後の掃除が あった。掃除自体は面白くもなんともないが、椅子の後ろや、テーブルに隠れて、小銭が落ちている事があり、それを見つけた瞬間は何とも云えない快感だっ た。


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第四章 その3

バイトをしながら、土曜日には百合とのデートを重ねながら、明美のアパートと自分のアパートを気ままに行ったり来たりしながらの日々を送っていた。たまたま自分のアパートに居る時、
「伊達さん、電話、おふくろさんから。」
と、食堂のおじさんが呼びに来てくれた。電話の内容は、何故帰ってこないのか、浩一はもうとっくに帰ってアルバイトをしているのに、お前は一体何をしてい るのか、あまりアパートにも帰ってないらしい、いつこちらに帰ってくるのか、と内容は予想通りだった。そのうち帰ると言って切ろうとすると、そのうちとは いつか?と聞くので、2~3日のうちに、と答えざるを得なかった。僕は仕方なくウィーンでバイトの清算をしてもらい、猪山にはその旨を言い、百合に帰省を 電話で伝え、バックに洗濯物を詰め込み、東京駅へ向かった。新幹線も新大阪までは開通していたが、急ぐ旅でもないし、お金も勿論無いし、急行銀河を利用す る事にした。やっとの思いで終点の姫路に着き、在来線で相生まで行き、そこから赤穂線に乗り換え、邑久に辿り着いた。拾何時間もかけて故郷に帰ってきたの に、懐かしい気持ちより、煩わしさの方が先によぎった。母親の愚痴を又聞かなければならないのか、あの仏頂面の親父の顔を見るのか、阿呆な妹達とも話をし なければならないのか、などと思うと、改札口を出たくなかった。やはり、故郷は遠きにありて想うもの、なのだろうか。バスに揺られながら我が家に着いた。 幸いにも両親は出払って居なかったので、2階のそのままになっている自分の部屋へ行き、押し入れから布団を出して、少し眠る事にした。
「省吾。ご飯だよ。起きなさい。」
と言う母親の呼ぶ声に起こされ、1階へ降りていった。僕は、照れ臭そうに、
「ただいま。」
と言うと、
「いつ帰るのかと、心配しとった。元気そうでなにより。」
と、母親が喜んだ。僕の帰省を知ってか、活き活きとしたや鮃や鮑や蛸などの刺し身が、文字通り山のように飯台の上に並べてあった。半年振りに食べる瀬戸内 海の味は格別だった。二十何年たった今でも、刺身は瀬戸内海物が一番だと確信している。僕は、少しづつ機嫌が良くなり、親父と飲み交わすビールも悪くない なあ、などと思ったりもした。
「お前、勉強しとんだろうな。」
「うん、まあまあ。」
「東京ば行く時に、弁護士やこになる言うけん、行かしたんやでな。」
「うん、わかっとる、わかっとる。」
親父は痛いところを、言葉少なに突いてきた。同志社も合格していたが、弁護士になるためには、中央へ行った方が断然有利だと、親父を口説いたのだが、それ は口実で、本当は出来るだけここから離れたかったのだ、などと今更言えないし、仕送りはやっぱりしてもらわないと困るし、かといって司法試験は全く興味な いし、第一無理なことがはっきり解った今は、当分の間適当にごまかしておくしかない。僕は、親父に気づかれないように、小さなため息をついた。
高校時代の友人達と、酒を飲んだり、麻雀をしたり、釣りや海水浴を楽しんだり、都会から旅行に来ている女子大生や若いOL達をからかったりして、思ってい たより早く2週間が過ぎていった。集中講義があるからと、嘘を吐き、故郷を発ったのは、8月も終わりかけていた頃だった。上京してすぐ東京駅から百合に 帰ってきた報告と、会う約束の電話をし、椎名町の自分のアパートに荷物を掘り込み、小汚い猪山のアパートに行ってみると、人恋しそうに彼がいたので誘い、 ラビアンローズへ出掛けた。明美を捜したが、今日は休みなのか店にはいなかった。しばらくしてカウンターに座り直して、中にいる好恵ママに、
「今日、明美さん休みなの?」
と聞いた。
「明美?やめちゃったよ。」
「えっ!ほんと。いつ、いつやめたの?」
「うん、そうね、もう4~5日になるかしら。あら、知らなかったの?君と親しくしてたんじゃなかったの?」
「えっ、とんでもない、そんなこと。それで今、どこにいるんですか?」
「アパートも変わるって言ってたし、多分新宿辺りにいるんじゃない。あの娘は新宿が好きだったし、似合う娘だよ。いい娘だったのにね。あたしも残念だけ ど、しょうがないものね。本人がやめるって言うもの。」
「そうか、やめちゃったのか。」
僕は用事を思い出したと、猪山に言い、彼を店に残して明美のアパートへ急いだ。次の住人が決まっていない部屋に灯りは点いてなかった。未だ持っているカギ でドアを開け中に入った。部屋の中はムッとしていた。僕は湿り気のある畳の上に崩れるように座った。僕と明美とは一体なんだったのだろうか?愛していたの だろうか?明美は僕の事を愛してくれていたのだろうか?女装して新宿の街を歩いた事、本当に楽しそうにソフトクリームを食べていた豊島園、いつも口ずさん でいたコーヒールンバ、哀しい寂しい顔など一度も見せた事がなかった、僕の初めての女。暗い部屋の中で僕は、とめどもなく流れてくる涙を、手で拭いなが ら、過ぎ去った大人の愛を感じていた。


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第五章 その1

結局猪山は一度も帰省せず、あれから又別のバイトをしていたらしい。今度の見つけてきた新しいバイトは、1日3千円という凄いやつだった。但し夜の8時か ら次の朝の5時までという、大変ハードなものだった。僕は、一週間だけ行こうか、と云う事になった。仕事は製本だった。PM10時から15分、午前0時か ら45分、AM3時から15分の休みがあるにはあったが、覚悟していた以上にきつかった。次から次へと流れてくる本の製本をしたり、目一杯荷車に本を積ん で別の場所に移動するのが主な作業だったが、昼と夜が逆と云うのは、これほど人間の体にこたえるものかとつくづく実感した。僕は、自分の肉体を極限近くに まで痛めつける事で、明美の事を忘れようとしていた。これ位の罰では軽すぎるだろうが、少しは罪滅ぼしになるかも知れないと、自己弁護をした。
9月になると、故郷から帰ってきた学生達で、キャンパスにも再び活気が戻ってきた。久しぶりに、吉田、熊沢、猪山と僕の豪華メンバーが揃い、近くの雀荘で卓を囲んだ。
「お前達、今度のナイトラリーに出場しねえか?」
と、リーチをかけながら熊沢が皆を誘った。熊沢の話によると、秋の文化祭の行事の一つに、夜の8時に大学を出発し、50キロを歩いても走ってもいいから、 とにかく走破し、又大学に戻ってくる、と云う催しがあるらしい。猪山は金にならないから嫌だと言い、吉田はかったるいから嫌だと言うので、僕が付き合うこ とにした。その日は9月28日だそうで、まだ3週間近くある。少し足腰を鍛え、トレーニングでも積もうか、などと熊沢と話し合ったが、結局何もせず当日を 迎える事になった。吉田と猪山がスタートの地点に来て、[せいぜい頑張れよな][心の中で応援してまっせ]などと、冷やかして帰って行った。周りを見渡す と、5百人位いただろうか、女子学生もかなり混ざっていた。食べ物や飲み物を、入れたリュックを背負った者も多くいた。熊沢が不安そうに、
「おい、伊達。俺達も何か食い物かジュースでも、持ってきた方がよかったんじゃないのか?」
と心配そうに言うので、
「大丈夫だよ。中間点の東中野の休憩所へ、彼女が、おにぎりとお茶を持ってくるようになってんだから。安心しろよ。」
「本当に持ってくるんだろうな。彼女、小金井だろう、知ってんだろうな、ちゃんとした場所。」
「この間会った時、地図、ちゃんと渡しておいたから、間違いないよ。」
豪砲一発、勢いよくスタートした。中間点までは、小走り状態で到着した。百合が僕達を見付けて、
「伊達さん、ここよ。」
と言って手を振りながらやって来た。
「すごいわね。今なら完全に百番以内よ。大丈夫?疲れてない?」
「うん、ちょっと疲れたけど、思っていた程じゃないよ。ああ、こいつ熊沢。こちら柿沼百合さん。」
簡単に紹介をし、百合が作ったであろう、おにぎりを熱いお茶で流し込みながら食べた。卵焼きとか、ウィンナとか、ほうれん草など全部たいらげ、15分程で再び出発した。
「気をつけてね、余り無理しないで。これジュース水筒に入れておいたから、また飲んでね。それじゃ、頑張ってね。」
「うん、ありがとう、じゃあまた。」
百合に見送られながら、勢い良く再スタートした。
「おい、話には聞いていたが、彼女美人だなあ。うらやましいなあ。もうやっちゃったのか?」
「バカ、まだ、手もつないでないよ。」
「本当かよお。」
(よくよく考えてみると、そうだなあ。最初のデートの時、軽く腕を組んだだけで、何にもないなぁ)
再スタートして5~6キロ走っただろうか、最初のガクンがやってきた。
「おい、ダメだ、腹が痛い、休もう。」
と僕が根をあげた。
「しょうがねえなあぁ、全く。」
熊沢がぼやいた。僕らは舗道の縁石に腰を降ろした。それが決定的に悪かった。2~3キロ行っては休み、2~3キロ行っては休みの、連続になった。前半に追 い越していった女の子達に、[お先に]と今度はドンドン抜かれていく。落後者を拾っていく自動車が、おふくろのように思えてきた。午前2時。残り10キ ロ。
「おい、どうしよう?あれに乗るか?」
情けない声で熊沢が言う。
「それもしゃくだなぁ。ペース配分を考えりゃよかったなぁ。」
「今更そんな事言ってもしょうがないよ。ジュースもないし、どうする?」
「もうちょっと行ってみようか?」
Ⅰ~2キロ行っては休み、1~2キロ行っては休み、になった。それでもようやく、後3キロの標識が見えた。突然、熊沢が、
「おい、伊達!俺の顔を殴れ!」
と言い出した。気が狂ったのかと思ったがそうでもないらしい。
「おい、本気だ。俺の頬を殴れ。早く!」
と叫んだ。僕は立ち上がり、思い切り熊沢の頬に平手打ちをくらわした。熊沢は、今度はお前の番だ、と言って、僕に平手打ちを、それも2発くらわした。僕達 は自然に肩を組み合い、2人3脚のように、いち、に、いち、に、いち、に、と声を掛け合いながら進んだ。夜がしらじらと明け始めてきた。それでもいちに、 いちに、いちに。午前5時過ぎ、二人はゴールに倒れ込み、そのまま大の字になった。
「おつかれさま、これ、完走バッチです。」
と言って、係の女の子が、小さなバッチと紙コップに入ったコーヒーを手渡してくれた。無言のままコーヒーをゆっくりすすった。ちらっと熊沢の横顔を窺う と、朝の陽光に、キラッと光るものがった。僕も一すじ涙が頬から顎を伝って、アスファルトへ落ちた。(ありがとう、熊沢。お前は本当にいいやつだ。お前に 巡り合っただけでも、大学に来た甲斐があったよ)僕は心の中で叫んだ。足を引きずりながら、僕は椎名町のアパートへ、熊沢は桜台のアパートへ帰った。それ から、2~3日はまともに歩く事が出来なかった。それもそのはずである。足の裏には、直径3センチくらいの豆が3つか4つ、出来ており、爪も2~3枚割れ ていて風呂にも入る事が出来なかった。


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第五章 その2

10月になると、足も治ったので、一週間振りに大学へ行ってみると、何かしら騒々しくなっていた。革マル、中核、社学同、全共闘、民青などと書いた、思い 思いの色のヘルメットを被った学生達が、髭は伸ばし放題、うす汚れた服装をして、我が物顔に振る舞い、キャンパスのあちらこちらで、アジ演説を繰り返して いた。僕と吉田は、横目で彼らを見過ごし、ハイライトへ行った。
「おい、吉田。僕には解らないんだけど、あいつら一体何やってんだ。」
「あいつらって?」
「あのアジってるやつらさ。」
「ああ、あいつらか。俺にも解らんよ。日本がどうのこうのとか、今にも滅びるような事を言って。そんな訳ないだろう。第一戦争なんて起きやしないよ。結局、ヒマなんだよ。やつらは。」
「そうか、ヒマなのか。」
「そうだよ、ヒマで馬鹿なんだよ。俺達は忙しいだろう。麻雀はしなきゃならないし、美人には興味あるし。」
「それはそうだけど…」
「じゃ、教えてやろうか。あいつらはデモの時ヘルメットや覆面をして、顔が解らないようにしているだろう。メンが割れるとまずいんだよ。新聞やテレビに写されちゃ困るんだよ。何故だか解るか?」
「解んないよ。」
「就職に差し支えるからさ。4年になったらさっさと髪を整えて、何喰わぬ顔をして面接に行ってるさ。あいつらは、俺達のことをノンポリの偽善者だと言って るが、あいつらの方が偽善者だよ。マルクスも理解してないし、レーニンのように勇気はないし、毛沢東の行動力もないね。」
「お前、マルクス読んだのか?」
「読んだよ。でもあの理論には少々無理があると思ったね、俺は。所詮人間は競争の中で生きていくもんだよ。」
「俺も読んでみようかな、マルクス。」
「よせよせ、そんなものより僕は歴史書を勧めるね。歴史の中にこそ生きていく知恵があると思うよ。おい、もう時間だ。そろそろ行こうぜ。」
時計を見ると、4時近くになっていた。今日僕は吉田に誘われて、バイオリンの演奏会へ行く日になっていた。吉田が演奏会に僕を誘うと云う事は珍しいことな ので、問い詰めると、吉田の彼女がソロで演奏するらしく、一人で行くのが格好悪いので、僕に白羽の矢を立てたのである。会場へ着くと、丁度開演の10分前 だった。吉田の彼女は5番目に演奏をした。吉田は、
「今までの中でやっぱり一番良いなぁ。いい音だよ、お前もそう思うだろう。それに美人だしなぁ。」
遠くてはっきり顔も解らなかったし、他の演奏者と比較してもそれほど変わらない、と思ったが、
「本当だ、美人だ。いい音色だよ。なかなかあれだけの音はでないもんだ。」
と、僕は皮肉ったつもりで相槌を打った。吉田はすっかり上機嫌になり、演奏会が終了した後、寿司を奢ってくれた。後にも先にも、一度きりの吉田の奢りだっ た。吉田の家は、マンションや借家などを数多く持っている大資産家で、親父の財布から壱万円札を抜いてもわからないほどだというのに。


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第五章 その2

10月になると、足も治ったので、一週間振りに大学へ行ってみると、何かしら騒々しくなっていた。革マル、中核、社学同、全共闘、民青などと書いた、思い 思いの色のヘルメットを被った学生達が、髭は伸ばし放題、うす汚れた服装をして、我が物顔に振る舞い、キャンパスのあちらこちらで、アジ演説を繰り返して いた。僕と吉田は、横目で彼らを見過ごし、ハイライトへ行った。
「おい、吉田。僕には解らないんだけど、あいつら一体何やってんだ。」
「あいつらって?」
「あのアジってるやつらさ。」
「ああ、あいつらか。俺にも解らんよ。日本がどうのこうのとか、今にも滅びるような事を言って。そんな訳ないだろう。第一戦争なんて起きやしないよ。結局、ヒマなんだよ。やつらは。」
「そうか、ヒマなのか。」
「そうだよ、ヒマで馬鹿なんだよ。俺達は忙しいだろう。麻雀はしなきゃならないし、美人には興味あるし。」
「それはそうだけど…」
「じゃ、教えてやろうか。あいつらはデモの時ヘルメットや覆面をして、顔が解らないようにしているだろう。メンが割れるとまずいんだよ。新聞やテレビに写されちゃ困るんだよ。何故だか解るか?」
「解んないよ。」
「就職に差し支えるからさ。4年になったらさっさと髪を整えて、何喰わぬ顔をして面接に行ってるさ。あいつらは、俺達のことをノンポリの偽善者だと言って るが、あいつらの方が偽善者だよ。マルクスも理解してないし、レーニンのように勇気はないし、毛沢東の行動力もないね。」
「お前、マルクス読んだのか?」
「読んだよ。でもあの理論には少々無理があると思ったね、俺は。所詮人間は競争の中で生きていくもんだよ。」
「俺も読んでみようかな、マルクス。」
「よせよせ、そんなものより僕は歴史書を勧めるね。歴史の中にこそ生きていく知恵があると思うよ。おい、もう時間だ。そろそろ行こうぜ。」
時計を見ると、4時近くになっていた。今日僕は吉田に誘われて、バイオリンの演奏会へ行く日になっていた。吉田が演奏会に僕を誘うと云う事は珍しいことな ので、問い詰めると、吉田の彼女がソロで演奏するらしく、一人で行くのが格好悪いので、僕に白羽の矢を立てたのである。会場へ着くと、丁度開演の10分前 だった。吉田の彼女は5番目に演奏をした。吉田は、
「今までの中でやっぱり一番良いなぁ。いい音だよ、お前もそう思うだろう。それに美人だしなぁ。」
遠くてはっきり顔も解らなかったし、他の演奏者と比較してもそれほど変わらない、と思ったが、
「本当だ、美人だ。いい音色だよ。なかなかあれだけの音はでないもんだ。」
と、僕は皮肉ったつもりで相槌を打った。吉田はすっかり上機嫌になり、演奏会が終了した後、寿司を奢ってくれた。後にも先にも、一度きりの吉田の奢りだっ た。吉田の家は、マンションや借家などを数多く持っている大資産家で、親父の財布から壱万円札を抜いてもわからないほどだというのに。


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第五章 その3

今日から銀座のヴァン画廊で光岡さんの個展が始まる。6時から簡単なパーティがあるらしく是非来て欲しいと、光岡さん言っていたので、百合と百合の母親と 3人で行く事になっていた。土曜日の恒例のデートは父兄同伴だなぁ、と思いながら待ち合わせの場所である有楽町駅の改札口へ急いだ。しばらくして百合達も やって来た。母親にこの間のお礼を言い、5時半頃ヴァン画廊に着いた。受付の芳名録に名前を書こうとして一瞬息が止まった。驚いたことに、明美が座ってい たのである。
「いらっしゃいませ。お久しぶり、お元気?伊達君。」
「はっ!はぁ。」
全くの不意打ちである。明美は僕が来ることをあらかじめ予想していたから、心の準備は出来ていただろうが、こっちは慌てふためくばかりである。脇の下を汗 が流れるのがわかった。それでも、百合の手前冷静を装い、会場の中に入っていった。画廊は30坪程の広さで、パーティには少しまだ時間があるせいか、十数 名しか客はいなかった。百合がモデルになった作品には[樹聖]と云う題名が付けられていた。欲目かもしれないが、一番良い作品だと思った。明美の作品には [かすみ草の女]と云う題名が付けられており、これもなかなかの出来ばえだった。僕が明美の写真を見ていると、
「きれいな方ね。この人受付にいらっしゃった方ね。お知り合いなの?」
百合が聞いた。
「うん、以前椎名町のバーにいたんだ。時々飲みに行ってたから、知ってんだ。」
「その節はいろいろとどうも。」
光岡さんがやってきて百合に挨拶をした。
「いいえ、私何だか別人みたい。恥ずかしいわ。ああ、母です。こちらカメラマンの光岡さん。」
「百合の母です。いろいろとお世話になりまして、ありがとうございました。」
「とんでもない。お世話になったのはこっちの方です。無理言って済みませんでした。どうぞごゆっくりなさって下さい。」
今日は光岡さんもばっちり決めている。そろそろパーティが始まるようである。人もいつしか40~50人位集まって、会場は少々きつくなっていた。先ずこの 画廊のオーナーがやや長めの挨拶をし、光岡さんが感謝とこれからの抱負を述べ、光岡さんの友人が乾杯をした。しばらくして、ジャケットの裾を誰かが引っ張 るので、振り向くと明美がいた。
「素敵な娘ね。君にはぴったりだよ。今、ここにいるから、気が向いたら来てね。」
と言って、角の丸い名刺を僕に渡した。見ると、新宿のバーの名前と、玲子と書いてあった。
「うん、どうも。あれからどうしてたのか心配してたんだ。行くよ、必ず。」
「じゃ、また、元気で。」
明美は軽くウィンクして、水割りを作ったり運んだり、明るくテキパキと動き回っていた。7時過ぎにヴァン画廊を出て、百合の母親が予約しておいた店で、僕 は初めてのフランス料理を御馳走になった。センスがないと、叱られそうだが、今でもどうしてもフランス料理だけは好きになれない。どうしてかというと、ま ず、ほとんどの料理が冷たいのか温かいのかわからない事、運ばれてくる料理と料理の間の時間が長く待たされる事、いい加減腹が一杯になった時分にメイン ディッシュが出てくる事、それに値段が高い事。それでも僕は、
「御馳走様でした。生まれて始めてフランス料理を食べました。美味しかったです。」
と、礼を言った。店の前で別れ、僕は地下鉄丸ノ内線で帰った。[ナイフとフォークは外側から外側から使うのだ、と云うことを吉田に教えてもらっていたのが役に立った]と思いながら…


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第五章 その4

浩一は夏休みにバイトをして、秋葉原で買ったテレビに朝からかじりついていた。僕は昼頃起きインスタントラーメンを食べ、柴木に借りた本を読んでいると、 熊沢と猪山がやってきた。彼らの話によると、明日大学の講義は全部休講になるとの事だった。何故かというと、明日[10月21日]は、国際反戦デーだか ら、全学連の奴等が暴れ回り、授業どころではない、との事だった。それがどうしたのだと僕が逆らうとお前達も暇だろうと思って来てやったのだ、と言う。要 するに麻雀がしたいのだった。浩一は余り乗り気ではなかったが、3人揃っていて断るほど、常識のない奴でもなかった。腹拵えをしようと云う事になったが、 日曜なのでおじさんの店は休みだった。僕は以前に明美達と行ったトンカツ屋を思い出し、そこへ行くことにした。誰が払うかサイコロで決めよう、と云う事に なった。結果は浩一が負け、払う事になったのだが、1000円以上は払わない、と言い出した。仕方がないので皆は了承し、兎に角腹拵えは済ませ、麻雀を開 始した。夜の11時を過ぎてからは、いつもの毛布作戦を取った。延々次の昼頃まで続いた。運の悪い事に、浩一の一人負けになった。浩一はだからしたくな かったのだと、愚痴ったが、それに同情する者は一人もいなかった。
浩一から金をむしり取るようにして、おじさんの店で昼食を食べた。僕は明美の事を思い出し、今晩新宿へ飲みに行かないかと、皆を誘った。浩一は行かない、 と言ったので三人で行くことにした。夜までは時間があるので、仮眠を取った。夕方頃目を覚まし新宿へ出掛けることにした。浩一のテレビからの情報による と、国際反戦デーの今日は、予想通り何千人規模の集会があちらこちらで行われ、激しいデモが繰り広げられているとのことだった。危険だから止めろと忠告し ているのか、自分が飲みに行かない理由を正当化しようとしているのか、解らなかったが、僕達3人は、浩一の忠告に耳を傾けず出掛けた。特に猪山は、面白 がっていた。僕は、明美から貰った名刺がポケットにあることを確認してから、出発した。
池袋から新宿に着いたのは、6時過ぎだった。殺気だった駅員や勤めを終えたサラリーマンの表情に、僕はただならぬ事態を直感した。西口から駆け上がってみると、学生達がジグザグデモを行っていた。猪山が、
「やっとる、やっとる。おもしろいなぁ。」
と奇声をあげた。
「まあ取りあえず、お茶でも飲もうぜ。」
と僕が言った。喫茶店は若い客でごったがえしていた。コーヒーを飲み終える頃になると外の様相が一転してきた。僕達は急いで店を出た。学生達に混じって、 若い労働者や群集もデモに加わり、その周りを機動隊が取り囲むようにして警備をしている。デモ隊の[帰れ!帰れ!]のシュプレコールの中、あちらこちらで 小競り合いが始まってきた。駅の構内から新手のデモ隊が現われ、手に持っていた角材で、警備に当たっていた機動隊に殴りかかった。機動隊員は追いやられ、 正面にいた機動隊の群れに逃げ込んだ。新手のデモ隊はどうやら、最も過激な反代々木系みたいだ。駅の構内に近づいてみると、駅員がマイクで、[危ないです から線路に降りないで下さい。]と繰り返し繰り返し叫んでいる。いつの間にか、線路もホームもヘルメットをかぶり、タオルでマスクをした全学連で溢れてい た。僕達は巻き込まれそうになったので、歩道橋まで必死で逃げた。線路上の石を拾ってきたのか、荒れ狂った集団は盛んに投石を始めた。機動隊はじりじりと 後退していく。僕達を含むヤジ馬は、やんややんやの喝采を送った。突然パァーンと、ピストルを発射するような音がした。続いてパァーン、パァーンと2発 鳴った。ところどころで煙が上がる。まさか銃を発射する事はないだろうと思ったが、
「きったないやっちゃ、あいつら鉄砲打ちやがった。」
猪山は狂ったように怒鳴りながら、歩道橋を駆け下り、群衆の中に飛び込んでいった。僕と熊沢は[やめろ!]と言ったが、猪山の耳には入らなかった。[一文 の得にもならないのに、あいつらしくない。]と僕は思った。パァーン、パァーンと又2~3発音がした。しばらくすると、両方の目が痛くなり涙が出てきた。 音は催涙ガスを発射したものだった。群衆がひるんだその隙を突いて、機動隊は盛り返した。ジュラルミンの盾で投石をかわしながら、警棒で逃げる群衆を殴り つけ首筋を捕まえ、引きずりながら、ごぼう抜きに逮捕していった。中には意識を失って、ぐったりしている者や、額から血を流している者もいる。西口から東 口から、300人、500人単位で全学連が現れてくる。流血を見、興奮したヤジ馬達もそれに合流し、機動隊と激しくやり合っている。催涙弾と投石。警棒と 角材。道路に面した店のウィンドの窓ガラスがこわれる音。新宿駅の構内の2~3ヶ所で火の手が上がった。救急車や消防車のけたたましいサイレンの音。道路 脇に停めてあった乗用車が、次々と横倒しにされ、燃え上がっていく。人数こそ少ないが、訓練を受け、武器を持った機動隊は、時が経つにつれ段々優勢にな り、群集は後退していった。僕と熊沢も歩道橋を降り、群集の最後尾について退却していった。
時計を見ると10時を過ぎていた。もちろん新宿を通過する電車は全て不通になっている。猪山の事は気になったが、捜しても見つかる訳がないので、僕と熊沢 は歩いて帰る事にした。なにせ50キロのナイトラリーを一緒に歩いた仲なので、椎名町まで位軽い事だと言いながら、まだ催涙ガスで痛い目をこすりながら、 灯りが消えてしまった暗い道を急いだ。
「ここに、吉田がいたらなんて言うのかな?」
と熊沢が言った。
「奴ならきっと、こんな事で日本が変わったり、良くなったりしないよ、って言うよ。」
僕はこの間の話を思い出しながら、熊沢に答えた。
「そうだろうな、そう言うだろうな。でも、伊達、今の日本は本当にいい国と思うか?」
「詳しい事は僕には解らないが、戦後20年程たった今、こんなものじゃないか。実際悲惨な戦争体験のない我々が、二度と戦争だけは起こしてはいけない事だけは確かじゃないのかな?」
「そうだな、それだけは確かだなぁ。」
僕は椎名町に着くまで、明美がいるバーに飲みに行くのだった事をすっかり忘れていた。アパートに帰ってみると、浩一はテレビを点けたまま眠っていた。僕は テレビのスイッチを消し、押し入れから布団を出した。横で熊沢もなかなか寝付かれないらしく、寝返りを何度も打っていた。僕も目が冴え、今晩のデモ隊の 事、機動隊の事、日本の将来の事、安保の事、沖縄返還の事、自分の将来の事、両親の事、今まで余り考えなかった事柄が脳裏に浮かんだり、消えたりしてい た。
次の日の朝、熊沢は9時頃に帰った。僕は今朝の新聞で、昨夜の新宿での暴力デモに、秦野警視総監が、騒乱罪を適用した事を知った。国家公安委員長も、全員 逮捕の方針を打ち出していた。500人余りが検挙された模様だった。僕は猪山の事が気になり、服を着替えて、彼のアパートに行ってみた。戸を開け部屋の中 に入ってみると、死んだように猪山は眠っていた。布団を剥がし、猪山を起こした。
「誰やねん、こんな朝はようから。」
剥がした布団を抱きかかえ、海老のように丸くなった。
「起きろ!俺だよ。伊達だよ。猪山!」
と再度起こした。
「なんや、伊達か。」
「なんや、やないだろう。途中でいなくなるし、心配してきたのに。あれから、どうしてたんだ。いつ帰ったんだ?」
「わい、珍しう興奮してしもうて、今思おたら、阿呆なことしたわ。何時に帰ったかよう覚えてぇへんわ。」
もし、捕まってでもいたら大変な事になっていただろうと思い、無事な猪山を見て、僕はひと安心をした。猪山をお茶に誘い、そこでモーニングのパンを食べ、 僕は自分のアパートに帰った。猪山は、もうひと眠りすると言って、あの小汚い4帖半のアパートに帰っていった。


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第五章 その5

10月21日の国際反戦デーを機に、学生運動は日増しに激しくなっていった。大学の講義も休講が目立つようになり、ノンポリの僕にとってますます学校へ行 く用事が無くなっていった。そんな中で、関東華道会連盟展(以下連盟展と云う)が二日後に迫っていた。副部長の倉橋さんには出品しますと言い、百合にも出 品すると言ったが、実際の所、何をどう生けるか、全く決まっていなかった。今日は華道部の指導をしている先生が来て、出品者が下生けをし、観てもらう事に なっていた。僕は、御茶ノ水の駅前の花屋にぶらっと寄った。歳は50歳前後の品の良いおばさんが、
「何か贈り物ですか?」
と聞いた。
「いいえ、ちょっと。」
と僕は答えた。
「これ、桜に似ていますが、なんという花ですか?」
と僕は品の良いおばさんに尋ねた。
「これ、桜ですよ。十月桜って云うんです。別名彼岸桜とも言いますがね。」
「へえ、秋にも咲く桜があるんですね。知らなかった。こっちは、なんと云う花ですか?」
「ああ、これ?これは木瓜ですよ。普通は春先なんですが、四季咲きと言って年中あります。いい花でしょう。」
「木瓜かぁ、いいなぁ。これにしようかな。実は華展があって出品する事になっているんですが、どうしていいかわからなくって、困っているんです。」
「お華しているの?男性で?珍しいわね。何流なの?」
「草月なんですが。」
「草月ね、うちは小原の事ならわかるけど。草月はちょっとね。」
「とりあえず、この木瓜もらいます。」
「一本でいいの?一本じゃ無理よ。三本位なきゃダメよ。いいわよ、サービスしとくから。他はどうするの?」
「他って?」
「馬鹿ね。木瓜だけじゃどう生けるの?少しおばさんが考えてあげるわ。」
と、言って親切なおばさんは、木瓜を手に取り、目の高さにしたり、向きを変えてみたり枝を曲げたりしていた。
「いいわね、ここをこういうふうに矯めて、この枝は切って、木瓜はある程度矯まるから余り矯め過ぎると折れちゃうから、気を付けてね。折れ矯めする事もあ るけど、あなたじゃ無理みたいだから。そうね、足許に何かいるわね。あっ!丁度いいのがあるわ。これ、これ、これをこんな風に足許に二本程生けるといい わ。」
「これ、なんて花ですか?桔梗ですか?」
「これ、都わすれって言うのよ。珍しいのよ、この時期には。うちの主人が大好きな花でね。今朝の市で買ってきたところなの。あなたついてるわ。」
「へえー、これが都わすれか。こんな花だったのか。名前は知っていたが、これが都わすれね。いい花だなあ、可憐で。」
「ところで,花器はどんなものを使うの?」
「花器ですか、持ってないし、部の方にあるのを使う予定です。」
「いいわ、それじゃついでに花器も貸してあげる。せっかくこれだけの材料を使うのだから、合う花器を使わないともったいないわ。これ使いなさい、これならピッタリよ。」
と言って、棚から下ろしてきた花器を僕に渡した。青っぽいグレーの素焼きの、細かくて背の高い上品な花器だった。なるほど、これなら良く合うと僕も思った。
「いいわね、この花器は少し背が高くて不安定だから、この白い小石を中に入れて、その上に剣山を置いて使うのよ。わかった?それじゃ頑張ってね。」
いくらだと聞くと、二千円でいいと言う。早速部室に行き、観てもらう事にした。倉橋さんを始め先輩達は、ぼろくそに批判した。草月にはそんな生け方はない とか、今日まで新入生のくせに一度も相談しなかったとか、中大からは5人しか出品しないのに、こんなんじゃ恥ずかしいとか、さんざんに言った。しかし先生 は、
「面白いんじゃないの。確かに草月にはそんな生け方はないかもしれないけど、今時そんな事にこだわるなんておかしいわ。タイヤとか金属なんかを使ったオブ ジェだってある時代なのよ。いいんじゃない、花材も新鮮だしね。でも、伊達さん、ここはこういうふうにした方がもっと生きてくるわよ。」
と言って枝の向きを変えた。なるほど、一ヶ所直すだけで全体の雰囲気が変わり、木瓜と都わすれの持つ、可憐なおおらかさが一層映えた。そして、その作品は 新人賞を貰い、連盟展は僕にとって大成功に終わった。百合も、友達三人で、可愛いオブジェを出品していた。そのお華の前でお互いに記念写真を取り合った。 (そういえばあの写真はどこへ行ってしまったのだろう)


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第五章 その6

師走に入ると、反戦を旗印に、大学理事法案に基づく授業料値上げ阻止を掲げ、大学側と学生達の間で対立は深まり、団交が重ねられ、学生運動は一段と激しさ を増してきた。早稲田や東大では、学生達がバリケードを築きストライキを敢行したため、大学側は機動隊の出動を要請し、排除をすると云う強硬手段を取っ た。それが返って学生達を刺激する結果となり、泥沼化していった。中大においてもストに突入するのは時間の問題だった。浩一は、僕に事態が変わったら連絡 してくれと言い残して、12月の半ば頃にさっさと帰省してしまっていた。
僕は、今の収拾のつかない大学側と学生達の対立や、日本の将来も、気にはなっていたが、そんな事よりも、もっと切実な問題があった。7月の時点では、さし て気にも留めていなかった百合との別れが、日一日と迫っている現実だった。今日はいよいよ最後の日である。父親が転勤になったアメリカでは、クリスマスに パーティがあるのだが、家族特に妻が同伴する事が習慣になっていて、クリスマスの日には、百合達はニューヨークにいなければならないのである。僕達は、最 初にデートをした[メルローズ]で、3時に合う約束をしていた。憂鬱な気持ちで行くと、百合はもう来て待っていた。僕は何を話していいかわからず、必死で 言葉を捜していた。
「いよいよだね、もう準備できた?」
「ええ、…………」
「ニューヨークは寒いらしいね。」
「そうみたい。」
百合は気のない返事をした。
「どれ位向こうにいる事になるんだろうね?」
「さあ、2~3年じゃないの。………ああ、これプレゼント。」
百合は小さな赤いリボンのついた紙袋を出した。
「プレゼント?」
「だって、明日は日本にいないのよ、私。今日はイヴイヴよ。クリスマスプレゼント。」
「クリスマスプレゼント?僕に?」
「そうよ。」
「ありがとう。開けていい?」
「ええ。あまりよくないけど、なんとか間に合ったわ。女の子にはね、誕生日よりもクリスマスの方が大切なのよ。」
開けてみると、明るいグレーの手編みのマフラーだった。僕らの田舎では、クリスマスプレゼントを交換し合う習慣などなかったし、あったとしても、せいぜい 朝目が覚めた時枕元に、紙で出来た赤い長靴が置いてあってその中に、飴やお菓子が入っている程度だった。
「ありがとう、感激だなあ、大事に使わせてもらうよ。」
「明日は見送りに来ないでね。」
百合はぽつりと言った。
それから早速そのマフラーをして、僕達は皇居のお堀端を腕を組んで歩いた。12月の東京は陽が短い。僕は組んでいる腕をほどき、百合の肩に手を回した。
「もう、帰らないといけないんじゃないの?」
心と裏腹の事を言った。
「うん、そうね。」
玉砂利の中にあるベンチに腰をかけた。回している手に力を加え、百合の体を引き寄せた。百合は、僕の肩に顔を埋めた。
「どうしていいか僕には分からないんだ。」
「なにが?」
「キスしていい?」
「いや!」
「ダメ?」
「ここじゃいや。」
「僕には分からないんだ、どうしていいのか。」
独り言のように僕は言った。ポケットから煙草を取り出し、火を点けた。車のヘッドライトに照らし出されて、時折カップルが僕達の前を通り過ぎていく。
「ちょっとここで待っててね。」
と言って、百合は40~50メートル先の電話ボックスへ入っていった。母親に遅くなるからと、電話しているのだろうか、と思った。僕は、ポケットからまた 煙草を取り出して、火を点けた。15~6分たっただろうか、百合はタクシーを止め、僕に手招きをした。乗り込むと、百合は運転手に行き先を告げたが、僕に ははっきり聞こえなかった。タクシーは高輪ホテルの玄関に着いた。食事でもするのかと思ったが、百合は直接フロントへ行き、チェックインの手続きを取っ た。僕の胸は早鐘のように鳴った。ボーイがエレベーターで案内をした。無言のまま、僕は眼線を上げ、階を示す赤いボタンを追っていた。2,3,4,5,6 の所でエレベーターは止まった。
「ごゆっくりどうぞ、ご用がございましたらフロント5番をお回し下さい。」
と言って、ボーイはドアを閉めた。百合は手にバックを持ったまま、コートも脱がず僕の胸に飛び込んできた。僕は、思いきり抱きしめキスをした。柔らかい唇 だった。少し落ち着いてから、ソファに座り、百合が入れてくれたお茶を一口飲んだ。火が点いたままの煙草を灰皿の上に置き、僕は立ち上がって窓の外を見 た。枯葉が舞い落ちる音が聞こえそうな夜だった。
「お風呂、入っていると思うわ、どうぞ。」
と百合が言った。僕は、
「ああ。」
と言って、ホテルの浴衣を手に持ってバスルームに行った。この後すぐ起こるだろう出来事を想像してみたが、僕にはまだ実感が湧かなかった.交代するように 今度は百合が、バスルームに消えた。バスルームのドアに隠れて、百合は下着以外の着ているものを床に脱いでいた。僕は、こんな時どのように振る舞うのが、 紳士的なのか分からなかった。点けた煙草を二、三服して、灰皿にもみ消し、ベットに入って待つ事にした。百合は、スルスルと僕の左側に入ってきた。湯上が りの香りと、明美とはまた違う女の匂いがした。
左腕になくなった重みと、かすかに聞こえるシャワーの音で、僕は浅い眠りから目を覚ました。百合が、白いタオル地のバスローブを着て出てくると、驚いたような顔をして、
「あら、起きたの?眠っている間に、帰ろうと思っていたのに。」
と言った。時計を見ると、午前一時を少し回っていた。僕は起き上がり、百合を抱きしめ長いキスをした。彼女の唇の感触を、永遠に忘れないように、確かめな がら。百合の着ていたバスローブが肩から床にすべり落ちた。百合は、息苦しそうに唇を離し、僕を両手で軽く制し、落ちたバスローブを拾い上げようとした。
「お願いがあるんだ。そこの窓のところに立ってくれないか。君の裸を僕だけのフィルムに残しておきたいんだ。」
満月に近い月の光と、部屋の間接照明に照らし出された百合の肉体は、静視するには眩しすぎた。百合の眼からは涙が溢れていた。身支度を整えた百合は、フロ ントに電話をしタクシーを頼んだ。僕は、もう一度百合を抱きしめた。
「忘れないよ、絶対に、君の事。それに、クリスマスプレゼント。」
「私も忘れないわ、貴方の事。手紙書くわ、貴方もちょうだいね。それじゃ行くわ。貴方に会えて楽しかったわ、さよなら。」
百合は、ドアを閉め、出て行った。百合の靴音が段々遠くになり、やがて聞こえなくなった。


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第五章 その7

ほとんど眠れないまま朝を迎えた。(倉橋さんに連れられて、連盟の会議に行き、そこで初めて百合を知った事、電話をしてデートの約束が出来た事、[メル ローズ]で最初に会う約束をして彼女が現れた瞬間、ピラフとライス事件、武蔵野の原野で雨の中行った写真撮影、百合宅への訪問、毎土曜日のデート、一緒に 何本観たか覚えていない映画、父親の転勤、そして今日)僕はシャワーを浴び、浴室の鏡に自分の全身を写し、両手で顔を2~3発叩いた。着替えをしチェック アウトをするべくフロントへ行くと、お連れ様から頂いております、と返事が返ってきた。ホテルの喫茶ルームでコーヒーとトーストを頼んだ。僕は迷ってい た。見送りに行くべきか、やめるべきか。暖房のよく効いたホテルの玄関から外に出ると、一層寒さを感じた。ジャケットの襟を思わず立てた。そして、メル ローズへ行き、又コーヒーを飲んだ。一口二口飲んで、煙草に火を点け大きく吸った。(そうだ、そうしよう)と決心し、急いで伝票を持ってレジでお金を払っ た。小走りで、お茶ノ水駅の前の、おばさんがいる花屋に行った。
「こんにちは、おばさん、いつぞやはお世話になりました。ありがとうございました。」
「あら、あなた、お久しぶりね。まだいたの?授業ほとんどないんでしょう?田舎へは帰らないの?」
「おふくろみたいな事言わないでよ。ところで、あの都わすれって云う花ある?」
「今日はないわよ、あの日は特別だったのよ。」
「そうか、ないのか、残念だなあ。」
「どうするの?」
「うん、根がついてるのが欲しいんだ。」
と言って、百合が今日アメリカに発つ事や、そのプレゼントにしたい事を話した。おばさんの話によると、根がついている植物は、税関の検疫にかかり、機内に は持って入れないとの事だった。でも花束なら大丈夫だから、上手にごまかす事が出来るかもしれないと言う。少しその辺にかけて待ってなさいと言うので30 分位待っただろうか、
「喜びなさい、あるって。ちょっと遠いけどね。」
花市場に聞いてくれたそうで、高崎線に乗り熊谷の駅から2つ行ったところに、深谷という駅がある、そこで降りて柄沢さんという家を訪ねなさい、と言って住 所と名前が書いてあるメモを渡してくれた。その人が、温室の中で栽培しているそうで、よく事情は話しておいたから、そして、もう一度ここに戻ってきなさ い、ちゃんと分からないように花束みたいにラップしてあげるから、とおばさんは言った。
おばさんの指示通り行動し、帰ってきたのは午後4時頃だった。かすみ草やフリージャや桔梗まで一緒に入れ、丁寧にラップしてくれた。お金はいらない、おば さんからのクリスマスプレゼントだというので、甘える事にした。心の底からお礼を言い、浜松町からモノレールに乗り、羽田へと向かった。パンアメリカン 19時のフライトである。僕は花束を横に倒さないように注意し、チェックインカウンターで待っていた。百合と母親は間もなくやって来た。
「百合さん、最後のお別れにきました。これ僕からのクリスマスプレゼントです。」
僕は花束を渡した。百合は、にっこり微笑んで、
「ありがとう、来てくれたのね。」
と言った。
「この中にある、これ、都わすれです。大きな声で言えないけど、根がついています。向こうで育つかどうか分からないけど。」
「貴方が華展で生けてた花ね。わかったわ、一生懸命育ててみるわ。」
時間まで、空港内のレストランでお茶を飲み搭乗口で握手をした。あったかい、小さな手だった。百合は何度も何度も、こちらを振り返り、小さく手を振った。 僕は、送迎デッキへ急いだ。百合の乗った飛行機が離陸し、それが星になり、流れ星になって、消えていくまで見送っていた。


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