或る二世経営者のホームページ ~香山廣紀 かく挑み、かく歩む。~

香山草紙 小説集


椎名町にて候 ~おき去りにした青春~ 北見俊介 著

第二章 その5

朝の陽光と左腕の快い痺れで、僕は目が覚めた。明美を起こさないように、左腕をそおっと明美の細い首から抜き、うつ伏せになり、上半身を反る様な格好で煙草に火を点けた。
「あら、もう起きたの。」
くしゃくしゃになった髪を右手で掻き上げながら明美は言った。
「ごめん、起こしちゃったね。」
「いいのよ。今日何曜日?」
「今日は日曜日だけど、何か?」
「ああ、今日日曜日か。お店休みだ。それに友達が来る日だわ。何時、今。」
「10時10分頃だけど。」
「よかった。1時過ぎに友達が来る事になってんの。」
「じゃ、僕帰らなきゃまずいね。」
「いいわよ。いなさいよ。それに君の服、昨日の夜洗っちゃてるから、着る物ないし。コーヒーでも入れるわね。その前に一寸シャワーしてくるわね。」
七,八分して、明美は濡れた髪をバスタオルで丁寧に拭きながら、浴室から出てきた。僕はそのしぐさにたまらず、明美を抱きしめ、かなり激しくキスをした。 明美はかすかな抵抗を示しながら、その倍以上の反応で答えてくれた。小柄な明美を引きづる様に抱きかかえ、ベッドの上に押し倒した。バスローブの下は何も 着けていなかった事に、一層の刺激を感じながら。
「バカね。君も早くシャワーして来なさい。」
僕は照れ臭さと満足感が同居する中で、シャワーを浴びた。出てくると、着替えた明美がパンを焼いていた。僕はテーブルに出されたコーヒーとトースト、プラ ス目玉焼きを食べ、何時の間にか点けられたテレビに目をやりながら、小さな幸福を感じていた。大げさに言えば、人間に男に生まれてきて、よかったと。
「明美いるぅ?」
と言って、友達の雅子が一時少し過ぎにやって来た。簡単に自己紹介をしたが、それ以上は何一つ詮索される事はなかった。明美と雅子は新宿に買い物に行く約束をしていたようだった。
「僕失礼して帰りますね。」
「馬鹿ね。そんな格好じゃ外にも出られないでしょう。留守番させとくのもかわいそうだし…そうだ!いい考えがある。」
と言って、明美は雅子に耳打ちをした。
「君、身長いくら?体重は?足のサイズは?」
と、明美は妙な事を聞いた。
「雅子。悪いけど、この角を右に曲がって、二つ目の角を左に曲がった所に、売ってるから、適当なのを買ってきて、これサイフ。」
「OK!大体分かるわ、ウェスト72位かな、その体重じゃ。」
と、訳の分からない事を言い、一体何が始まるのか、不安になっていた。
「明美さん。何を企んでいるのですか?」
「いいのよ、君も一緒に新宿へ行くの、ショッピングに、但し、女装してね。女装してみたくない?面白い趣向になるよ、きっと。さあ、お化粧をしなくっちゃ。その前に顔を剃らなきゃね。」
「本気?やめてよ!そんな、格好悪い。第一服がない!ああっ!そうか!雅子さんが着るものを買いに行ったのか!もう参ったなぁ。」
「さあ、男らしく、じゃなかった女らしく、度胸を決めて。」
[もうやけくそだ]と、言われるまま明美の膝に頭を埋めて、顔を剃ってもらい、ファンデーションやら頬紅やらを塗り、アイシャドーやアイラインを描き、口 紅も付けて貰い、ビューラーまで使って、睫毛をカールしてもらった。最後に明美はドライヤーを使って、この時代流行っていた、少々長めの僕の髪を手早くブ ローした。
「はい、出来上がり。一寸鏡見て。案外きれいよ。ほらほら、ね。」
「私、きれい?」
と僕はおどけてみせた。(悪乗りだ。絶対母親には見せられない。)雅子が買ってきた、ブラウスを着、スカートをはいた。少し窮屈だったが、もうどこから見 ても充分[女]だった。明美の黒いパンストを履き、雅子が買ってきた靴を履いて、その辺を歩きながら、白鳥の湖を踊った。二人は笑い転げていたが、僕は逆 に落ち込んでいった。明美のバックを借り、三人でいよいよ外出する事になった。おじさんの店の前を通ったが、日曜日なので閉まっていた。足元がスウスウし て、頼りない感じがした。定期券を持っているのに料金を払うのは、一寸もったいない気がしながら、椎名町の駅で切符を買った。池袋に着くまで、誰もが自分 を見ているようで、落ち着かなかった。明美は、
「バカネェ。誰も君の事なんか注目してないよ。自分が思うほど、他人は関心ないわよ。少し背の高い女だなぁ、位しか思ってないよ。もっと、堂々としてなさい。」
と笑った。日曜日の午後の山手線は、結構空いていて座る事が出来た。僕は意識的に足を組み替えながら、明美の耳元に、
「明美さん、女に見えますかね?」
と、囁いた。
「見える。見える。充分見える。新宿にあるのよ、オカマバーが。何ならそこでバイトもしてみる?そこのママ勿論男だけど、よく知っているから、紹介してあげようか?」
「いいよ、それ程物好きじゃないから。」
当時は、オカマバーは新宿でさえ2,3軒しかなく、カルーセルマキが登場したり、ピーターがもてはやされるのも、2年くらい後の事である。新宿に着くと、 先ず高野で、生まれて初めてチョコレートパフェを食べさせてもらった。それから、伊勢丹で買い物をする二人の後に従った。二人はそれぞれ、僕の1ヶ月分の 生活費(35000円)の倍以上のお金を使ったようだった。荷物を持たされ、おまけに、[明美さん、足が痛いよ、靴づれしちゃって。]と、言う言葉にも、 [ふん、そう]と、ほとんど耳を傾けない様子で、次から次へと、本当に精力的によくしゃべり、よく歩く二人だった。途中でトイレに行きたくなり、何の意識 のないままに男性用に入り、用を足そうとして、チャックをと、思った瞬間、顔が赤くなった。周りを確かめ、あくまで平静を装いながら、隣の女性用に駆け込 み、ドアを閉め大きく深呼吸をした。
やっとの思いで、椎名町へ帰ってきたのは夜の7時を少し回っていた。
「ああ、楽しかった。雅子食事に行こうか。椎名町で気に入っているのは、あのトンカツ屋だけ。他は面白くも何ともない街。」明美はぶっきらぼうに言った。
「伊達君。服乾いているわよ。もう着替える?君も一緒に行こう。ああ化粧落とさなきゃね。こちらへいらっしゃい。どう?一日女性の感想は?結構面白がっていたじゃない。」
僕は自分が男だったのか、女だったのか、すっかり忘れていた。ただ、靴ずれの痛みだけが残っていた。明美の云うトンカツ屋へ行くとヒモチャンも好恵ママと一緒に来ていた。
「おお、明美。今日はどうしてた?そうか、買い物か、俺はこいつのお陰で、腰がガクガク。なあ、好恵。」
「バカア。やめてよ。こんなところで。」
と、好恵ママも満更でもなさそうに、じゃれている。結局ヒモチャンに奢って貰う事になったが、本当に美味しいヘレトンカツだった。ヒモチャンが言うのに は、ソースに美味しさの秘訣があり、ここの親父はけちで、俺達お客は勿論の事、従業員にも教えないそうだ。僕は、月に一度くらいはこの店のトンカツを食べ たいものだと、真剣に思った。


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