或る二世経営者のホームページ ~香山廣紀 かく挑み、かく歩む。~

香山草紙 小説集


椎名町にて候 ~おき去りにした青春~ 北見俊介 著

第二章 その4

椎名町に帰ると、この街がいつもより生き生きしているように感じた。おじさんの店で食事をし、風呂屋へ行った。湯槽につかりながら、鼻歌の一曲も歌いたい 気分になった。アパートへ戻り、浩一のドライヤーを借りて髪を乾かした。10時少し前だったので、一人でラビアンローズへ行ってみた。店に入ると明美が [ニコッ]と、今度は本当に[にこっ]と、笑ってくれた。三杯目の水割りを飲み干した処で僕はトイレに立った。トイレから出てくると、明美がおしぼりを渡 してくれた。そのとっさの隙をついて、明美に耳打ちをした。
「今夜、君んとこへ行きたい。」
明美はけらけらっと笑って無視した。僕も平静を装いながら席に戻った。他に七,八人のお客がいて、あちらこちらで笑い声がしている。明美も忙しそうに立ち 振る舞っている。他の女性が僕についていて通り一辺の世間話をしていたが、つまらなくなり、勘定をしてもらうように頼んだ。3500円と、書かれた小さな メモ用紙を手渡されたので、5000円札を出し、釣りを貰って外に出た。明美が僕についていた女性を制して、見送りに来てくれた。
「ありがとう、またね。」
と言って、僕のズボンのポケットに手を突っ込んだ。僕はしばらく歩いた所で立ち止まり、ポケットに手を入れ探ってみた。カギとメモ書きが入っていた。 [12時過ぎには帰ります。]僕は桜荘に向かっていた足を、回れ右させ、明美のアパートへ向かった。おそらく[にー]と、笑っていたに違いない。
ガチャガチャと12時半頃に、ドアを開ける音がした。
「灯りが点いている部屋に帰るのも悪くないわね。」
と言いながら明美が帰ってきた。
「お帰り。」
もう何ヶ月も一緒に暮らしているような気分で迎えた。
「ただいま。お茶入れようか?それともコーヒーにする?」
「コーヒーがいいです。」
「僕やりましょうか?」
「いいわよ。そこに座ってなさい。」
僕は所在無く、テレビを見ていた。
「はい、どうぞ。インスタントだけど。」
「ああ、ありがとう。」
明美はコーヒーを二口ほど飲んだ処で、
「君。あたしのこと随分軽い女だと想っているでしょう。二、三度しか会ってない、それによく知らない男を自分のアパートに引っ張り込んで。」
「いいえ、とんでもない、そんなこと。」
「上手くいったと思っているでしょう、本当は。」
「いいえ。僕、今夜は特に人恋しい気持ちだったし、それに明美さんの事、一番最初に栗田さんに連れていってもらった時から、素敵な人だなぁと、想っていましたし……」
「いいのよ。無理しなくても。まあいいか、そんなこと、どっちでも。伊達君だったわね君。君いくつ?」
そんな会話の中で、お互いの身元調査は進んでいった。明美は歳は21才で、出身は新潟の十日町だそうで、美容師になりたくて高校卒業と同時に上京したが、 3ヶ月で辞め、友達の誘いもあって新宿のバーで働き始め、ある事情で半年前に椎名町へ引き越し、今のラビアンローズにいるのだそうだ。僕は風呂を涌かして おいたのを思い出し、
「あの、お風呂に入れますから、どうぞ。」
「あら、気が利くわね。それじゃ先に入らしていただきましょうかね。こういうの割といい気分ね。悪くないわ。」
と言って、にこっと微笑んだ。鏡の前に座って、お化粧を落としながら、コーヒールンバを口ずさんだ。
[昔アラブのえらいお坊さんが、恋を忘れた哀れな男に……]
「いいお湯だった、お先にでした。君も入ってきなさい。そこに洗濯機があるでしょう。君の着ている服、余り綺麗じゃないから、その中に入れておくといいわ。着替えは出しておくから。」
化粧気のない顔は僕より年下に感じた。湯槽に浸りながら、[今日は2度目だなぁ、お風呂。こういうのも悪くないなぁ。ヒモチャンの気持ち、解るなぁ。]な どと妙に納得しながら、風呂から上がると、女物だけど、Tシャツとそう派手でないパジャマのズボンの方が置いてあった。ズボンの方はちょっぴり短めだけ ど、Tシャツは素肌にピッタリ。
「部屋にお風呂があると云うことは、いいもんですねぇ。」
と言いながら、明美から出されたトマトジュースを一気に飲み干した。こんな美味しいトマトジュースは初めてだ。深夜のテレビは相変わらず何かを放映している。
「君、もうそろそろ寝る?」
時計を見ると、2時前だった。
「あの、お布団はどこにあるのですか?」
「バカねぇ。こっちへいらっしゃいよ。」
明美はベッドに腰をかけ、そう言った。僕はためらいながら、でも心臓はドキドキが早くなりながら、ベッドにもぐり込んだ。当たり前の事だが、明美は女の匂 いがした。それは求め続けていた匂いだった。[今夜こそ俺は男になるのだ]でも、不思議とプレッシャーはなかった。水密桃のような香りの中で、酔いしれる ような快楽で泥のような眠りに落ちていった。


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