或る二世経営者のホームページ ~香山廣紀 かく挑み、かく歩む。~

香山草紙 小説集


椎名町にて候 ~おき去りにした青春~ 北見俊介 著

第三章 その2

今日はその待ちに待った土曜日である。でもその前に、この一週間にあったことを記しておかねばならない。先ず火曜日には、池袋の西武デパートへ、母親から 送って貰った壱万円を持って、靴とマウンシングのスポーツシャツを買いに行った。もちろん今日の日のために。それから、先週の土曜日明美から貰った部屋の カギは、[そのまま持ってなさい]と云うことで、僕は気ままに、明美のアパートと桜荘を往復している。昨日の金曜日には、僕の、[明美さん、モデルになっ てあげなよ、綺麗なうちに。きっと記念になるよ。明美さんなら絶対素晴らしい作品が出来るよ。]と云う陰からの説得もあって、光岡さんが明美をモデルにし て、写真撮影をした。行きがかり上、僕は助手をさせられ、コウモリ傘のようなものを広げたり、カーテンのようなものを伸ばしたり、照明の調整をやらされた り、僕がお華を習ってるのだったら少しは花の事が解るだろう、と言って、花を買いに行かされたりした。明美も最初のうちは、裸になる事に少し抵抗を示した が、光岡さんの言葉の巧みさと熱意に負け、段々緊張も解けリラックスしていった。なるほど、下着を付けている時より、全裸の方が嫌らしさは感じなかった。 特に僕一人では持ち切れず、花屋の店員と一緒に運んだ山のようなかすみ草の中にうつ伏せになり、こちらを上目使いに見るポーズは、僕が見ても良いと思っ た。撮影は延々と5,6時間続いた。クーラーの良く利いた部屋だったが光岡さんは汗だくで、3台のカメラを使い、シャッターを押し続けた。鬼気迫るとはま さしくこうなんだ、撮られる方より、撮る方がはるかに大変だ、と云う事が解った。
「はぁい、終わり。おつかれさま。明美さん、ごくろうさん。」
と、光岡さんの声で僕は現実に戻った。光岡さんも普段の優しい目付きになり、僕達に労いのコーヒーを入れてくれた。
「君たちのお陰で、いい作品が出来そうだよ。特にかすみ草はいいアイディアだった。お礼に夕食を御馳走するよ。明美、今日店休みなよ。」
光岡さんは満足気にコーヒーを飲みながら言った。明美は、好恵ママに休ませて欲しい、と電話した。光岡さんに連れていって貰った所は、浅草の駒形と云う [どぜう料理屋]だった。どじょう料理、と聞いた時は、僕の田舎に行けばいくらでもいるのに、なんでわざわざどじょうを、と思ったが駒形のどぜう料理のフ ルコースの味は、今も僕の舌の一部分に残っていて消えない。どんな味かと問われても、この舌に聞いてくれ、としか答えようがない。特にどぜう汁は絶品だっ た。次に連れていって貰った処が銀巴里である。その名前を口にするだけでも、懐かしさで胸がわくわくする。生まれて初めて、生のシャンソンを聞きながら、 これも又生まれて初めてワインを口に含んだ。今から思えば、前座兼司会をしていたのが、金子由香利だったように思う。丸山明宏も2,3曲を語るように歌っ た。僕にとって別世界もいいとこだった。明美も頗る上機嫌で、シャンソンは別として、駒形へは一度行ってみたいと思っていた処らしくて、[秋の写真展が楽 しみだ。きっと見に行くから]とはしゃいでいた。椎名町に戻ったのは夜の11時頃だった。付け加えておきたいのは、その間の移動が全てタクシーだった事。
神保町の交差点に着いたのは12時少し前だった。メルローズと云う店の場所を確認してから、時間つぶしに古本屋へ入ってみた。学生達に混じって柴木がいた。
「やぁ、伊達、珍しいなぁ、本屋になんか来たりして。雀荘へ行かなくていいのか?」
「今日は皆来てないよ。それより、勉強のほう進んでるかい?俺が言うのもおこがましいが。司法試験目指してんだろう?お前。」
「いろんな先輩がいるよ、真法会には。でも卒業して3年が限度だな、司法試験は。それでダメなら、諦めたほうがいいよ。しみじみそう思うよ。大学は卒業し ても、真法会は卒業できない先輩が沢山いるもん。大きな声では言えないが、ああはなりたくないね、俺は。」
「じゃあな、せいぜい頑張れよ。」
「ああ、一度遊びに来いよ。」
「そのうち行くよ。」
(俺は忙しいんだ。悪いけど、青い顔したお前には付き合う暇などないんだ)などと、うそぶきながら目的地のメルローズに、12時半きっちりに行った。店内 は明るく、陽射しが溢れそうだった。客席を見渡したが、柿沼百合はまだ来ていない様子だった。入り口のよく見えるところに席を取った。ウェイトレスが、水 と灰皿にマッチを入れて、テーブルに置いた。
「何にいたしましょう?」
「悪いけど、もう一人来るから、それからにしてくれる?」
(本当に来るのだろうな)自信はなかった。煙草に火を点け、丁度一本目を吸い終わった頃に、店内が一層明るくなった。柿沼百合の登場である。僕はさっと立って、
「柿沼さん、こちらです。」
「ああ、貴方だったわね、伊達さん。梅雨の最中にしては、とってもいい天気ね。」
クリーム色のブラウスに、薄い空色のスカート。短すぎるでもないスカートからは、きれいなひざ小僧が出ていた。肩まで垂れた長すぎない髪。しているかして いないか解らない化粧。柔らかそうな革のバック。よく磨いてある靴。透明なマニキュア。彼女の何もかもが真珠のような深い上品な光沢を放っていた。
「何にいたしましょう?」
邪魔なウェイトレス。
「伊達さん、何にしますか?ここのピラフ、美味しいのよ。私、おなか空いたわ。ピラフとカニサラダいただけます?貴方は?」
「そうですか。ここのピラフ美味しいのですか。それでは僕もピラフにします。それにライスとね。」
ウェイトレスが[くすっ]と、笑ったような気がした。
「伊達さん。ピラフとライスですか?本当に?あの、ピラフは、チャーハンの様なものなんですけど。」
と、小声で百合が囁いた。(しまった!ピラフとは焼き飯の事か!)
「いや、ごめんごめん。ジョーク、ジョーク。貴女と一緒でいいですよ。」
何とかこの場は切り抜けたが、冷たい汗が身体中に、特に脇の下から滴り落ちるのが解った。クーラーがよく効いていると云うのに。僕はピラフと云うものを、 聞くのも食べるのも初めてだった。百合推薦の美味しいはずのピラフの味も分からないまま、とにかく食事は終わった。
「あの、どの位時間ありますか?」
「余り遅くまでは困りますが。」
「そうですか。実は、柿沼さんと是非見たいと思っていた映画があるんですが、いかがですか?」
「いいですよ。なんていう映画ですか?」
「ゴーンウィズザウィンド。風と共に去りぬです。ビビアンリーの。」
「あらいいわね。私も前から見たいと思ってた映画よ。で、どこでやってるんですか?」
「有楽町でやってます。時間は正確には分かりませんが、多分2時半位からだったと思います。」
「そう、まだ1時間はあるわね。じゃあ、ゆっくり歩いていきましょうか?」
「歩いてですか?随分遠くありません?」
「歩くのお嫌い?3~40分位で行けると思いますよ。それに、久しぶりのいいお天気だもん。」
どこをどう歩いたか忘れてしまっているが、かなり長い間、皇居のお堀端を歩いた事だけは覚えている。
「夢のようです。貴女とこうしてお堀端を歩けるなんて。他の人達が、仲良く歩いているのを見ては、いつも羨ましく思っていたんです。」
「まぁ、口がお上手ね、伊達さんて。」
「いいえ、本当です!本当ですよ。」
「じゃ腕でも組みますか?」
「ええもう、光栄です。でも、一寸恥ずかしい気もしますが。」
「じゃやめます。」
「そんな!つめたいこと言わないで。」
柿沼百合は、僕の新品のシャツに軽く手を触れて、にっこり微笑んだ。僕も勿論にこっと(本当はでれっとかも知れないが)笑い返した。少し見下ろすような態 勢(多分彼女の身長は1メートル57センチ~58センチ位だと思うが)で、僕の左後ろ3センチあたりに柿沼百合を感じる事が出来た。透き通るような肌の白 さを、胸元に見ながら、世界有数のプレイボーイを気取っていた。
お堀端から一般道路へ出たところで、百合は腕を組むのを止め、やや後方からこの角は右とか左とか、道順を教えた。僕の時間的な物差しからすると、あっとい う間に有楽町の映画館に来ていた。時計を見ると40分近く経っていた。百合の方が金持ちだろうと思うが、僕は入場券を二枚買った。20分程ロビーで終わる のを待って場内へ入った。観客のほとんどはカップルだった。[よかった、一人で観に来なくて]と思いながら周りを見たが、百合より美人はいなかった。ビビ アンリーがアトランタの荒野の中で、キッ、と将来を見据える姿が、大写しになって終わったのは、5時頃だった。近くの喫茶店に入って、僕はコーヒーを、百 合はミルクティを頼んだ。僕は、切り出すべきかどうか迷っていた。
「あのう、大変言いにくいんだけど。」
「なぁに?」
「あの、やっぱりいいです。」
「いやぁね。言い出しといて、はっきり言いなさいよ。なぁに?」
「じゃ言います。僕の知っている人に光岡さんていうカメラマンがいるんです。それでね、その人が今年の10月に初めての個展を開くそうなんです、銀座で。」
「それで?」
「それでね、まだ思うように制作が進んでないんです。これは光岡さんにも話してないんですが、貴女がもしよかったら、モデルになってあげたらどうかと思っ て。ええ、もちろん裸じゃありません。普通でいいんですが。きっといい写真が撮れると思うんです。」
「私なんかダメよ、スタイル悪いし。それにそのカメラマン……」
「光岡さん。」
「そう、光岡さんが気に入るかどうか分からないし。自信ないわ、モデルなんて。」
「それは僕が保証します。絶対良い作品が出来ると思います。この間、いえ昨日撮影の助手をしたんです。それで何となく解るんです。貴女ならきっと。」
「そう言われても困るわ。それにそういうことは両親にも話をしないと、私一存では。」
「それじゃ、一度御両親に相談してみて下さいよ。光岡さんには僕の方から話しておきますから。貴女が沢山の人に見られるのは、少々シャクだけど。いい展覧会になると思うな、僕は。お願いしますよ。」
「わかったわ。じゃあ一度話してみます。ダメだったら諦めてね。でも、割とミーハーね、伊達さんて。」
有楽町から山手線で東京駅まで行き、そこから中央線に乗り換え、名残惜しさを携えて、僕は新宿で降り、また山手線で池袋まで行き、西武線で椎名町まで帰ってきた。記念すべき最初のデートはこうして終わった。


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