或る二世経営者のホームページ ~香山廣紀 かく挑み、かく歩む。~

香山草紙 エッセイ集


  83. 高野山への旅

お四国八十八ヶ所満願成就の興奮も冷めやらない11月29日、私は無事お遍路を終えた報告とお礼のために高野山へ向かった。
高野山は真言密教の霊場である。開祖はもちろん弘法大師で、弘仁7年(816年)勅許を賜った後、弘仁19年(819年)高野山上七里四方に結界を結び、 伽藍建立に着手し、最初に『妙神社』を建立したと伝えられている。その後いく度かの歴史を経て、秀吉公の母堂の霊を弔うために、木食応其上人(もくじきお うごしょうにん)に命じて建てさせた菩提寺が明治の世になり『金剛峰寺』と改名され、現在の総本山金剛峰寺に至っている。
自宅から高野山までは200キロそこそこの道程だが、半分近くが一般道とカーブの多い山道のため、到着まで3時間半程を要した。山頂は広々とした町で、平 日だというのに観光客で賑わっている。駐車場に車を停め昼食をとった。目指す奥の院までは2キロくらいである。用意してきた白衣を身につけ、輪袈裟を首に かけ、納め札や教本、納経帳、蝋燭にお線香の入ったずた袋を肩にかけた。鬱蒼とした木立の中を、木漏れ日を浴びながらゆっくりと歩いていく。歩道の脇には 色々な立派なお墓が立ち並んでいる。大企業の経営者の墓はもちろん、歴史上の人物としては秀吉、家康をはじめ、上杉謙信、武田信玄公、また石田三成の墓も ある。誰がどのような経緯で供養したのかは知る由もないが、呉越同舟で皆仲良くお酒でも酌み交わしているかもしれない、などと思った。
承和2年(835年)弘法大師はお亡くなりになったとされているが、奥の院には入定信仰が今も残っている。東寺長者の観賢が醍醐天皇のお言葉を伝えるため に高野山に上られた際に、奥の院の廟窟を開かれたところ、生き生きとしたお姿で禅定に入っておられる大師様に会われたそうである。その伝説は後に、藤原道 長が高野山に上られてから急速に広がり、今日に至っており、ご詠歌にも「ありがたや、高野の山の岩かげに、大師はいまもおわしますなる」と詠われている。
奥の院で納経帳に記帳してもらい、朱印を押していただいた。その斜め横を、半紙を紙縒りでマスクにして、奉るように恐る恐る三方を抱きながら、格子戸の中に消えていく僧を見た。格子戸越しにふくよかなお顔をされた高貴な人物が、私に微笑みかけた。