或る二世経営者のホームページ ~香山廣紀 かく挑み、かく歩む。~

香山草紙 エッセイ集


  29. 初めて○○を食べた日~ステーキの巻~

私は幼い頃、身体がことのほか弱かった。生まれた時も未熟児で、よくも育ったと言われたほどだった。5歳の時小児結核を患い8ヶ月余り入院し、闘病生活を 送った。その間に、現代的に言えば院内感染で脳脊髄膜炎を発病し生死の境をさ迷った。医者も匙を投げ「恐らく助からんでしょう。もし運良く生命を取り留め たとしても、脳障害は残ります。覚悟はしておいて下さい」と、宣告されたそうである。
私は命を取り留めるどころか、奇跡的にも五体満足でこの世に引き戻された。私の生命力の強さもさる事ながら、決して裕福ではなかった家計をやりくりして、 高価な薬石の投与をし続けてくれた両親の無償の愛に助けられたと、今でも感謝の念でいっぱいである。
病弱だった私は、小学低学年の間、激しい運動は禁止されていた。いつも体育の時間は見学させられた。夏休みが来るのが嫌で嫌で仕方がなかった。なぜなら夏 休みが始まると友達や近所の仲間達は、皆で川へ泳ぎに行くのが遊びの中心となるが、私は遊泳を禁止されていたので独りぼっちになってしまう。両親は共働き であったから、私にかまっている時間もなかった。そんな訳で大体2週間余り石切神社が近くにある大阪の親戚の家に私は預けられる時期が続いた。今はどう なっているか全く分からないが、当時は桜並木の続く閑静な住宅街であった。
そこでの私の日課は、その家のおばあさんのお寺参りのお供と、せみ捕りであった。お寺参りは、今考えてみると、おばあさんの若い頃の業の強さが災いし、 様々な人に迷惑を及ぼした罪を償うものであったらしいが、その頃は知る由もなかった。お陰で今でも私はお寺や神社への参詣は嫌いではない。せみ捕りに関し ては、その技は名人の域を越えるほど上手くなった。又、そこへ行くと必ずもらえるおこづかい千円も悪くなかった。
夏休みが終わりに近づくと、父が車で迎えに来る。当時、勿論高速道路もない時代であるから、どれくらいの時間を要したか記憶にない。
その年、父は友人と二人でやってきた。お世話になったお礼もそこそこに、親戚の家を後にし、途中昼食を取るためにレストランに立ち寄った。運ばれてきた料 理は鉄板の上で肉がじゅうじゅういっているのが二つ、日の丸の旗が立っているのが一つだった。その鉄板の"じゅうじゅう"がステーキで、日の丸の旗が立っ ているのがお子様ランチであることを知るには、それから二十年の年月が必要だった。