或る二世経営者のホームページ ~香山廣紀 かく挑み、かく歩む。~

或る二世経営者の挑戦


第三部 ~すべてはお客様のために~


第二章 悲しい別れ ① 池内先生の場合

それはあまりに寂しいお葬式だった。春陽会の重鎮であり、日本画壇においてもフォト・レアリズムの第一人者であり、エアブラシを使った技法に関しては、 フォーカスの表紙でもお馴染みの三尾公三と双璧である池内登にしては、なんとも質素な告別式だった。家族がそれを望んだのか、弟子達の配慮が足らなかった のかは定かではないが、私は今でも残念で心苦しく思っている。
最初に体調の変化に気づかれ検査を受けられた結果は、前立腺ガンだった。手術をせずにホルモン療法で治療すると言うことだった。お会いするたびにガンは小 さくなっていると、おっしゃっておられた。事実元気で、殆ど普通の人と変わらなく生活を送られていた。有名なプロゴルファーもホルモン療法を行いながら、 試合に出場をしていると報じられていたので、私も全く安心しきっていた。そんな状態が3年くらい続いたであろうか、私もまわりの人たちも先生のガンのこと などすっかり忘れてしまっていた。そんな晩秋の日、先生が肺炎を患われた、という知らせが届いた。私達は直ぐお見舞いに伺った。その病院は、肺炎というこ とだったがなぜかガンセンターだった。多少元気はなかったが、それでも作家活動には貪欲で前向きな制作意欲は伺えた。それから年末にもう一度見舞いに行っ たところかなり衰弱されているのに驚きを覚え、もう現役復帰は無理かも知れないと思った。「口の中は口内炎が酷くて、物が食べられず流動食ばかりだ」と聞 き取りにくい言葉でおっしゃった。その言葉が私とのこの世に於ける最後のやり取りになるなんて、私は思いもしなかった。正月はご自宅で過ごされると、奥様 から伺っていたので、少しは気を楽にして病院を後にした。しかしそれが今生の別れになってしまった。口内炎は実は舌癌で殆ど全身に転移をしており、肺炎も 実は転移をした結果炎症を起こしていたのだそうだ。
2002年1月10日は、私にとって悲しい忘れることの出来ない日になってしまった。(香山草紙エッセイ集34参照)
先生との出会いはもう20年位前になる。現在の兵庫県立大学、当時は県立姫路短期大学だったが、先生はそこで住居学を教えておられた。勿論教授で、環境心 理学や人間工学という新しい分野から捉えた住居学の研究者としても広く知られていた。新光建設からこちらへ赴任して間もない頃、思うように人材の確保が出 来ず悩んでいた。たまたま先生の大学から当時の新光ロイヤル住宅に学生が入社してきた。なかなか優秀な女子だったので、色々と我が社に入社した理由とか、 大学の様子などを聞いているうちに、先生の存在を知るようになった。
そう云う訳で最初の出会いは学生を通じての就職活動だった。社屋を新しくし、1階にギャラリーを併設することにしていたが全く勝算はなく、文字どおり暗中 模索の状態であった。先生は絵も描かれると聞いて、大学の教授なら丁度いい、館長をお願いしよう、と軽い気持ちで、ずぶの素人の私が厚かましくお願いに 行ったのがご縁になった。一見とっつきの悪い冷たい感じがするが、根っこの部分では本当に温かい人だった。私が曲がりなりにも文化の面でも知られるように なり、権威のある在野団体から文化功労賞をいただけたのも、すべて先生のお蔭である。
文化芸術面はもとより、先生に生きる姿勢のようなものを身近で教えていただいた。私は必ず盛大な物故展を開催する。そして生前からのお約束の一つである《池内美術館》を建立する。
《フィンランドへの回想》《メタモルフォーゼ》《リフレイン》《黄色いマヌカン》《誰かがよぎった》《鏡の中の情景》《透過》《ショーウインドウ》《鏡 映》《レッグウォーマー》数え上げたらきりがない。どれもこれも先生の名作ばかりである。
悔いの残る寂しい別れだった・・・。

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