或る二世経営者のホームページ ~香山廣紀 かく挑み、かく歩む。~

或る二世経営者の挑戦


第二部 ~豊かさと自由を求めて~


第三章 秒読みの21世紀

20世紀を一言で表すなら、物で栄え心で滅んだ時代だと言える。これほど大きく変化した100年は、世界史上例がない。ある意味では戦いの歴史であったと 言える。二つの世界大戦はもとより、民族紛争、宗教戦争に至っては、その解決を見ずに残念ながら次世代に引きずって行く様相である。また自然との戦いも繰 り返して来たし、見方を変えればテクノロジーとの戦いでもあった。
我々は余りに個々の利益を追求し過ぎた。例えば自分自身の・自分の国の・自分が属する民族の・自分の信じる宗教の・利益のみを、それも損か得かという価値 基準のみで追い求めた時代であった。そして大多数の人々は利益を多く持っている人を順に賞賛し、崇め認めたのである。
しかし人間はそんなに見捨てたものではない。20世紀も終わりに近づくにつれて"人類はこのままでいいのだろうか?"と言う素朴な疑問を抱く人々が少数だ が現れ始めた。しかも、賞賛され、崇められ、認められた人達の中からそれを唱え始めたのである。その階級の人達が言い始めたからこそ、他の人達も耳を貸す ようになり、僅かではあるが耀らしきものを感ずるようになってきたのである。人類は時として正義と言う名を借りて様々な過ちを犯してきた。その度毎に反省 をし立ち直ってきたのである。そしてこの度はその答えを"やさしさ"に求めようとしているのである。
我々は二度と世界戦争を起こしてはならない。民族紛争も宗教戦争もなくなければならない。地球規模で物事を考えて欲しい。しっかりとした宇宙観を持って欲 しい。世界のどの地域においても飢えで子供の命を奪ってはならない。人種でその人の価値判断をするのはやめよう。緑多い青い地球を取り戻そう。
私はこんな気持ちで21世紀を迎えようとしている。  私は足掛け30年住宅業界に身を置いている。そしてその殆どが、どうしたらロイヤル住宅が売れるかと言う命題に取り組んできた。(影の声:メーカーの幹 部に聞かせてやりたい、ほんま表彰もんやで、人生の大半をそれに費やしているんやさかい)実際に売ってきたし、マネージャーとしてもやってきた。現場監督 として、またアフターサービスマンとしても、どうすればロイヤル住宅が売れるかをみて来た。経営者として携わってからは17年程になる。未だ混迷の中から 脱し得ない日本経済同様、この業界、なかんずく我々が切っても切れない間柄である、メーカーロイヤル住宅もまた大きな変革の中にあり、模索を続けながら、 その中で21世紀に生き残りを賭けて活路を見出そうとしている。
文字通り21世紀、西暦2001年1月1日に、メーカーが協業会社7社を吸収する形で、メーカー100%出資会社、従業員750名、年商350億の㈱サン ホーム近畿という巨大販社が発足する。敢えて生き残ったと言う表現を使わせていただくとすれば、㈱サンホーム滋賀と京都サンホーム㈱と我々㈱サンホーム兵 庫と、大変失礼だが薬にも毒にもならない㈱サンホーム伊賀という4社が、21世紀にその生死を問われる形になった。私の予想では、京都が滋賀を合併する形 で仮称㈱サンホーム京滋が誕生するのは時間の問題だし、伊賀などは一呑みであるから、我々サンホーム兵庫とある意味ではメーカーとの戦いになるのかも知れ ない。(何故かというと全国の協業会社の社長が近畿地区の成り行きに注目し、眺めているから、彼らを安心させ、余計な不安を抱かせずにロイヤル住宅の販売 に集中させてあげるためにも、私が頑張らなければと、思っているのである)
私は今までにも言い続けているが、ここで改めてはっきりと宣言しておく。どのような事態になろうとも私は、絶対㈱サンホーム近畿兵庫支店長もしくは姫路支 店長だけはお引き受け致しませんので、そのおつもりで。私は経営にも"美"を追及するタイプだし、誰かのように例え取締役とは云え大阪支店長など死んでも 御拝領させて頂く事は絶対あり得ない。男は美学に生きるべきであると思っているし、プライドもあるし、意地もある。そうならないように、先ず自分自身のた め、自分の家族のため、従業員のため、従業員の家族のため、協力業者とその家族のため、お客様のため、地域社会のため、私の全てを賭けてとにかく後10年 必死に経営に取り組む。その為には鬼にもなるし蛇にもなる。『断じて敢行すれば鬼神もこれを避く』の心境である。しかし莫大なエネルギーが要るのは目に見 えている。何せ私は分社化の方向だし、逆にメーカーは合併を目論んでいる。真しく相反する戦略だから、その摩擦を解消するには倍のエネルギーが必要になっ てくるのである。私は勿論その戦略を転換する気持ちはない。私はこの業界の究極の到達点は、完璧な地域密着だと思っているし、紹介受注100%を極めてこ そ、頂点だと信じている。その為にも私が目指そうとしている『分社戦略』は、ぴったり合っているのである。私の"合う合わない"経営理論がここにも登場す るのである。
私は2000年10月1日に総合展示場からの全面撤退を発表した。理由は3つある。1つ目は営業戦略の徹底を計るためだ。お客様中心の営業活動、即ち口コ ミ戦略と、ネットワーク作りの営業戦略をかねてより唱え続けてきたが、なかなかそれが周知徹底できず、ついつい総合展示場のみの営業活動に頼ってしまい、 結果競合のテーブルにのり、価格競争に陥ってしまい、オールオアナッシングの営業を繰り返しているのが現状である。どうしてもそこから抜け切れないのであ る。ならば諸悪の根源である総合展示場をなくしてしまえ、と言う少々乱暴な戦略の転換なのだ。でも人間もそうだが、ぎりぎりの所へ自分自身を追い込んでみ て初めて、気が付いたり行動を起すものであるように、企業もまた時々は背水の陣を彩っていると見せかけるのも必要なことである。
2つ目は、実はこれが私を決断させた一番の理由なのだが、展示期間が経過したモデルハウスを取り壊すことに堪えられなくなったからである。たまたま解体し ている現場に遭遇したせいも合って、21世紀はこんな馬鹿なことをしてはならないと思ったのである。これだけ地球を上げて環境やエネルギー、資源などと唱 えている時代に、展示期間が終了したからと言って、何千万も費やしたモデルハウスを、まるでダンボール箱のように潰してしまう光景に、私はいたたまれなく なったのである。
3つ目は莫大な経費の割に効率が悪すぎる為である。今現在当社は5ヶ所の総合展示場に出展している。その費用は約一月当り1,500万くらいかかってい る。受注金額に換算すると5億に相当する。経費はコンスタントに要る。受注はコンスタントにと言うわけにはいかない。混沌とした21世紀を見据えるとき、 無駄な経費はなんとしても身軽にしておかなければならない。契約期間の切れる順に3~4年かけて全て撤退していく。
以前から脱総合展示場は私の視野の中にあった。なかなか決断出来なかったのは、ポスト総合展示場が見つからなかったからである。それが見つかった今、その 時である。あめにてぃ倶楽部『伯遊館』がそれである。1年前まで赤穂にあり、かなりの成功を収めた体感展示場にヒントを得、宿泊型、地域コミュニティ作り を目指した、単独のモデルハウスを、我々のエリア内に最終的には20箇所くらい建てる計画である。そして、4~5年展示した後は本当に格安で売却するので ある。そうすれば、我々も解体しなくてすみ、経費も掛からないし、買われるお客様も良いものが安く手に入るし、文字通り環境にやさしいし、三方丸く収まる のである。全く虫のいい話であるが、その虫のいい話を実現しようとしているのである。いくらかは問題点はある。土地の確保が大変であるし、少しの間資金が 固定するのも少々難点である。しかし、21世紀の初頭にかけて私の重要な実務のひとつである。反応は様々である。『阿呆やなあ、時期尚早やで、今やらんで もええのに、何考えているんやろ』『うちもやりたいけどまぁ見させてもらいますわ』『たいした決断や』その賛否は別として、歴史がそれを証明すると思って いる。
次に私の実務としては、中長期計画推進プロジェクトを中心とした、それぞれのプロジェクトを立ち上げることと、とりわけ成果連動式給与システムの構築を早 急に行わなければならない。これは企業の盛衰を握ると言っても過言ではない。住宅もいずれ100万戸時代になり、10年15年先には80万戸時代の到来は 目に見えている。パイはどんどん減っていくのである。"我社に限って"は全く通用しないのである。『命あるものは必ず滅びるが森羅万象宇宙の常なる』こと は、他の人々よりは認識をしているほうだと思うが、せめて私が経営の第一線にいる間は、最低限企業は潰してはならないと、思っている。凡人ゆえかも知れな いが出来得れば健康体でいたいと、願っている。
考えてみると私は52年間20世紀に生きてきたことになる。単純に記憶だけを遡ってみてもいろんなことがあった。幼児の頃は体が弱く、ありとあらゆる病気 を体験した。とりわけ小児結核と脳脊髄膜炎にかかったときは、生死を彷徨った。両親の手厚い看護で生き返ったと、その感謝の気持ちは今も変わらない。小中 学と重ねていくうちに体も元気になり、人並みにスポーツも出来るようになった。高校で受験に失敗し、同時に大失恋を経験し、人生ではじめての挫折感を味 わった。お金は無かったが本当に楽しかった東京での大学生活(もう二度とできないと断言できる)を終え、父の創った新光建設に、ごく自然な形で入社した。 30歳を待たずして専務取締役に就任し、一応経営者の仲間入りをした。青臭い生意気な青年だった。その頃からゴルフを覚え、JC,所謂青年会議所に入会し た。JCへの入会はそれからの私に大いに影響を与えていった。30代半ばで、経営危機に陥った現在の㈱サンホーム兵庫、新光ロイヤル住宅を立て直すため、 代表取締役副社長に就任した。真の経営者としての仲間入りを果たしたと、実感した瞬間であった。その間、強大な創業者である父の影におびえながら、試行錯 誤を繰り返してきた。自分を知り始めた頃からは多少経営に目覚め始め、40歳を過ぎる頃になると、自信めいたものが沸いてきて、父の影に一喜一憂すること も無くなった。経営の"ヶ"の字が少しだが解りかけて来た。(詳しくは前著或る二世経営者の挑戦を参照にしていただければ)
私はその時々において沢山の人に巡り合い、その度毎に助けられてきた。いくら感謝をしてもし足りないと思っている。しかし不思議なことに、時々に助けられ たのは全てが男性である。一方女性はと言うと、巡り合ってからずーと助けられっぱなしなのである。家庭においては妻に、文化芸術面は秋山女史、住まいにつ いては杉村女史、ゴルフは鈴原女史、日頃の業務のパートナーとしては大田秘書、と言う具合である。専属占い師も女性だし、忘れた頃に顔を出すコンサルタン トも女性である。後25年くらいは生きたいと思っている。その間またいろんな人と巡り合い、助けられ、別れていくと思う。私はその『今』を最も大切に生き ていこうと思っている。
いよいよ秒読みの段階である。今現在2000年12月26日午後2時。21世紀まで後130時間である。20世紀にし残したことは余りに多過ぎて後悔の念 ばかりである。サンホーム兵庫の最終目標である『損益分岐点50%の企業』には遠く及ばないし、自分自身の目標である『私塾の開講』についても全く視界に 無い状態である。唯一叶ったことと言えば、リフォーム兵庫と言うネットワーク企業が出来た事位である。道程はとてつもなく遠い。しかし、千里の道も一歩か らの例えの如く、いかなる困難が待ち受けていようが、逆境だろうが、半歩でもいい、前進していく決意を新たにした。
私は2000年にお遍路の旅をさせていただいた。これは私にとって誉めてやりたいことのひとつである。次は歩き遍路をさせていただくつもりである。但し、 私がこの業界から退いてからの話である。その時、本当に一点の曇りもない晴れやかな気持ちで旅をさせていただくことを夢見て、その時がくることを心から信 じて、私はあらゆることに立ち向かっていくことを約束する。
《夢と勇気》をもち続けて………

 

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