或る二世経営者のホームページ ~香山廣紀 かく挑み、かく歩む。~

或る二世経営者の挑戦


第二部 ~豊かさと自由を求めて~


第三章 第三の危機

私がサンホーム兵庫の経営に本格的に関わるようになり始めて17年目になる。様々な事柄が私の脳裏を掠める。これは私が町長から依頼を受け、富山町の街づ くり懇話会というプロジェクトに携わったとき、その座長を努められた村山先生に教わったことだが、物事が成就する道程は、"修・破・離"という段階を踏む のだそうだ。"修"とは勿論修行という意味で、先ず『おさめる』段階である。"破"とは読んで字の如く『破る』『破壊する』事で、色々と年月をかけて多く のことを学び、積み重ね習得したものを一度粉々に破壊してしまう段階を踏まねばならないのだそうだ。今風で言うならパラダイムチェンジである。そして最後 に"離"であるが、あらゆる物から離れ、言い換えれば『空』になり、観つめ直し、そうし得た者だけが道を極め本物になれるのだそうだ。
そういう意味からすると、当社は"破"の状態なのかも知れない。30代半ばで私は経営のトップになった。新規にアパート事業やリフォーム事業を展開し、何 回となく組織改革を行い、いろんな研修も取り入れ、壊滅状態だった新光ロイヤル住宅を何とか建て直した。その時はこれが最高の戦略だとか、これ以上のシス テムはないと信じていた事が、振り返れば8割以上が失敗の連続だった。全く持って恥ずかしい限りである。
そしてようやく辿り着いた大戦略が《C・S》だった。それも根底を《E・S》に置いた《C・S》だった。約10年かかった。私のような無能な経営者を持っ た社員は全く持って気の毒である。それでも気が付かないよりはまだましだと、自分自身に言い聞かせ慰め、ある時は励ましながらここまでやって来た。人知れ ず涙を流したことも幾度かあった。粟倉常務をはじめ、様々な人々が志半ばで亡くなっていった。今はその人達の命を頂き、その分まで生きることがせめてもの 罪滅ぼしになると思っている。
私はC・Sに芽生え始めたころから,一貫して『後戻りのしない経営』目指していた。時間がかかってもいい,歯車がひとつひとつ噛み合うように、楔を打ち込 むように、わずかずつでもかまわないから前進すればいいと思っていた。その為に社員教育には事の他熱心だった。多少手前味噌になるが、自分でも1泊2日く らいの研修は出来たし、実際よく行った。社内プロジェクトは誰にも任さなった。何故なら社内研修の一環として私は位置付けているからである。社員教育は社 長の仕事の大きな部分を占めていると、私は思っているからである。しかしいつまでも自分が行っていると、かえって幹部達が伸びないと(そんなことは百も承 知だったが敢えて私は幹部達に譲らなかった。過去に試した事があり、その結果散々になった経緯があったので、今まで頑として譲らず私が全て行ってきたので ある)と思い、勇気を奮って今動いているプロジェクトのうち、デリバリーサービスプロジェクトを田丸常務に、FNA情報戦略プロジェクトを今私の中で売り 出し中の人物本山部長に、エコロジー委員会(新しくはじめたプロジェクトで、目的はご推察のとおり環境問題について渦を起こし、サンホーム兵庫として地域 社会に提言していこうという、我社にとって初めて正面切って社会と向き合う試みのプロジェクトである。最も当社は文化面ではギャラリーで、スポーツ面では サッカーで10年以上のながきに渉って社会に警鐘を鳴らし続けている)は山下部長に任せた。しかしその他のプロジェクト、つまり21世紀の住まい創り,中 長期計画(中長期計画については次の項目で詳しく述べる)推進プロジェクト,社内座談会(最近の若者は、我々が創造もしない価値観を持っているが、それを 表面に表さない傾向が強い。見た目には同調しているのでそれが余計に解りづらく、結果として業績に反映されず、マネージャーを困惑させる原因になっている と推察される。出来るだけ彼らを自由闊達な雰囲気の中で討論させ、様々な考えを汲み取り、吸い上げる事をひとつの目的にしている。もうひとつの目的は、当 然我社も避けることの出来ない波、所謂成果連動型給与体系の構築である。これも今までなら、あるいは他の企業なら血の通わない人事部か何かが、どこかの企 業のモデルをそっくりそのまま真似をして、導入するのがお決まりのコースなのだが、それでは真の意味での成果連動にならないと思い、若手社員にリーダー的 な立場でやらせてみようと思ったのである)の3つのプロジェクトは私が責任者として執り行っている。
私は"北見流後戻りのしない経営"が完成し、柔軟で強い良い企業が出来上がったと信じていた。事実業績も18期に百億円企業の仲間入りをし、19期、20 期と多少数字だけを捉えると凹凸はあるが、私的には折込済みで、僅かではあるが所謂後戻りのない企業であった。しかしながら、21期を迎えるころからか原 因ははっきりわからないが、私は全身で危機を予感するようになっていた。根拠はないがただなんとなくである。一寸違う、と云う感じなのである。
サンホーム兵庫(新光ロイヤル住宅時代も含んで)における最初の危機は、云うまでもなく私がこちらに赴任してきた時、即ち1984年ごろである。私は若さ と情熱でそれを乗り切った。二番目の危機は、少々の成功で私が有頂天になり、退職する社員が後を絶たなくなり、組織自身が崩壊しかけた1990年ごろであ る。私はそれも、私自身の猛勉強と行動と、CSという明確な方向性を示すことで乗り切り、逆に飛躍に結びつけることが出来た。
私の悪い予感は見事に的中し、それは如実に経営数字として現れていった。原因がこれだと限定できない閉塞感が漂っている。第三の危機の到来である。しかも 最も起きてはいけない出来事、つまり社員の不正をも発覚したのである。一つは前にも書き記したが、現場監督が半ば強制的に業者を脅して、水増しの請求書を 書かせ差額分を自分の遊興費に当てていた事件である。今ひとつの事件はこの2000年の6月に判明した経理担当課長の不正である。これは少々の事では動じ ない私でも堪えた。切れ者ではなく、むしろ鈍い方だとたかを括っていたし、仕事は出来ないが間違いだけはない男だと信じきっていたのである。やり方は巧妙 を極めていた。自分で伝票を切り、自分でコンピューターに入力し、自分で毎日の仕分け伝票をチェックし、銀行へ行き、入出金をしていたのだから、誰一人気 が付くものはいなかった。勿論私は全ての伝票はチェックし、捺印していたのだから気が付かなければならないのだが、都合の悪い伝票は私の手元に回さないの だから、判る訳はなかったのである。しかも、その作業の大半は周りの社員、つまり部下達の休日を見計らって行っていたのだった。私などは休日出勤までして 関心やなぁ、とか少しとろいのかも、などと思っていたのだからオメデタイ話である。それでもその不正が判明するきっかけを作ったのは私の感働きだった。私 は新年に当社へ来る2000枚余りの年賀状を全て毎年見るのである。この年に彼宛にきた年賀状が、飲食関係からのものが他の誰よりも圧倒的に群を抜いて多 かったのである。私などは3枚くらいだが、彼は15~6枚あった。私は怪しい、と思った。それに以前から総務部門の規範を変えたかったので(規範を変える にはそのトップを変えるのが原理原則)、私は彼を今春発足する手筈になっている、株式会社リフォーム兵庫に転勤させる決断をした。4月に転任し、6月に事 件は明るみに出た。
私は『もういい加減にしてくれ、私をもう少しゆっくりさせてくれ、まだ私を苦しめるのか』と叫んだ。それはしょせん詮無い事だと分かっていても、それが私 の宿命だと頭で解っていても、ついつい愚痴りたくなる。弱い男の生き様である。客観的に見れば可愛くもあるが、そのことがいざ自分自身のこととなると面白 いでは済まされない。事態は容易ではない。
世間が少々の不況でも、当社は余り景気に左右されない企業だと信じていた。しかし、もろにとは言わないが8割程度の波を被っている。私は愕然とした。当初 俄かには信じ難かった。しかし事実は事実である。あるがままに受け入れよ、である。私は先ず上場という新たな目標を模索したが、メーカーとの折り合いがつ かず、その矛先を増資に変更した。従業員持株制度の導入を図ったのである。メーカーは無理なので、今ひとつの株主新光建設の増資分を辞退させ、その割当て 額を従業員を中心に応募を募った。4,500万の資本金は、今現在(2000年10月1日)9,945万である。持ち株比率は、メーカーが48%、新光建 設が21.7%、従業員持ち株会が15%で、私は僅か5%に過ぎないのである。応募を募った過程で、実力より人気が先行して、増資予定額より希望額が遥か にオーバーし、私も一時はそのまま全額受け入れてしまおうかと悩んだが、結局1億を少し下回る資本金で落ち着いた。希望のまま受け入れていると3億近くに なっていたが、税務的な問題で9,945万になった。増資の作業と平行して中長期計画を作成し、2000年4月1日に発表した。我社にとって初めての中長 期計画書だった。これまでは私の中にしかなかったものをオープンにし、我社は"何処に立ち何処へ行こうとしているのか"を明確に示すことにより、社員全員 のモチベーションを少しでも高められたらと思ったのである。
一方私個人としては、昨年来からの懸案だった『お遍路』の旅に2000年4月に出かけた。何も知らず道中を甘く見て、たった一人自家用車で巡ったものだか ら、体力的にも精神的にも絶えられなくなって、最後までお参りすることが出来ず、53番で終わった。残りの35番はこの11月に終えたばかりである。今回 は電車とタクシーを利用してお参りをしたので、体力的には殆ど負担はなかった。詳しくは何かの機会で記すと思うが、一言でいうなら『何事もやってみなけれ ば判らない』ということと、『人間は一人では生きていけない、いろんな人のお陰で生かされている』が腹から解った。私にとって何よりも替え難い体験だっ た。
今私は当社は"破"から"離"へ移行しつつあるように実感している。がしかし、例え"離"に到達しようが企業経営にゴールはないのである。自分自身で模索 し決めなければならないのである。今度お遍路に行かさせて頂くのは10年の月日が必要であろう。

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