或る二世経営者のホームページ ~香山廣紀 かく挑み、かく歩む。~

或る二世経営者の挑戦


第二部 ~豊かさと自由を求めて~


第三章 人間は無力なのか!

1995年午前5時46分。私は飛び起きた。山崎断層の奴がまた暴れたな、と思い枕元のリモコンを探し当て、テレビを灯けた。どこかで地震が起きた事だけ は確かなようだったが、震源地がどこで規模がどの位で、震度はいくらなのか、といった事など一切分からなかった。全く混乱を極めていた。6時を過ぎる頃に なると、NHKの神戸支局から備え付けのテレビモニターを通じて、支局内部の揺れた様子が狂ったレコード盤のように繰り返し繰り返し流されてきた。そうこ うしているうちに、テレビ画面の上部に各地の震度を示すテロップが映し出された。震度6神戸・淡路島、震度5尼崎・伊丹、震度4姫路・山崎等など…
確か第一報はこの程度だった、と記憶している。7時過ぎに車のエンジンをかけ、出発する頃にはかなり情報も入ってきてはいたが、その後我々が目の当たりに する状況とは程遠いものだった。道路は大渋滞で姫路に着いたのは10時を回っていた。カーラジオが伝えてくる被害状況は、その度ごとに倍になっていく。自 分のオフィスのテレビは台から床に転げ落ちていた。数年前に小樽を旅したとき買った、たいそう気に入っていた北一ガラスのグラスをテレビの上に飾っていた のであるが、床の上で粉々に壊れていた。台から転げ落ちかどが壊れていたテレビを持ち上げ、元の位置に戻してスイッチを入れて見ると、無事映像は映し出さ れた。
私が若い頃からも含めこの年齢に至るまで、一寸オシャレな気分になりたい時や、気取ってデートをする時に出かけると言えば神戸だった。六甲山から所謂百万 ドルの夜景を見たり、港に停泊している豪華客船を見ながら潮風に当っていると、私でなくても女性の肩に手を回したくなってしまう、そんな雰囲気を持ってい る街なのである。神戸へ行けばたとえ気持ちが沈んでいても、晴らしてくれる何かがあると思っていた。
それが今、壊れたテレビから流れてくる映像は見るも無残な光景ばかりである。ショッピングをしたデパート、行き慣れた交通センタービル、見慣れた交差点の 建物、全てのビルがピサの斜塔のように傾いたり、3階か4階あたりで折れ曲がり、前後や左右傾いている。通り慣れた高速道路はドミノ倒しのように、何百 メートルに渉って崩れている。歩き慣れた歩道は地割れを起こし、その中は地獄へと繋がっているようだった。線路という線路は、新幹線を始め、JR在来線、 私鉄に至るまで、文字どおり千歳飴のようにひん曲がっている。爽快な潮風が頬を撫ぜ、痩せた詩人が物思いに耽りながら佇む光景が似合う神戸港の湾岸も削り とられている。しばらくすると街のそこかしこで火の手が上がり、さながら地獄絵を見るようである。古い住宅はマッチ箱を押しつぶしたようになり、六甲山麓 のあちらこちらで崖崩れが起き、電気、水道、ガスは止まり、道路は寸断され憧れの街神戸の面影は、たった15~6秒の時間のなかで脆くも崩壊していったの である。地球よりも重い5千余名の命をも奪い去って。
私はこの時程人間の無力さを感じた事はなかった。人間は古来より自然を神として、ある時は畏れ、ある時は崇めてきた。近代になってその心が薄れてきた事は 確かである。その戒めとして神がなされたとすれば、余りにも大きい代償だと言わざるを得ない。そう思う事自体が自然に対し畏敬の念がないのかもしれない が、凡人の見本のような私の答えとしてはお似合いだと思っている。
私はすぐさま幹部を集めて、工事中のお客様の家は勿論、当社で建てて頂いたお客様の家の修理は、よほど重度な損壊以外は全て無料で行なう事、1月中に全て のお客様を訪問する事、地震関連の仕事を最優先に行なう事を命令し、異常事態宣言を発令した。お陰で1~2月の受注は殆どゼロだった。体面ばかり取り繕っ て実の上がらなかったメーカー、仮設住宅を請け負い大もうけをした建設業者、一枚何拾万円で青いビニールシートを売った業者、人の心の痛みが全く分からな い、ただ煩くてしつこいだけの報道関係のリポーター達、火事場泥棒を地でいったやくざ集団、数え上げればきりがないが本当に色んな事を目の前で見たり聞い たりした。良きにつけ悪しきにつけ、人間の本質を見たような気分だった。
サンホーム兵庫の社員全員が理解し協力してくれたお陰で、2週間もかからず全戸の訪問を終え、後の修理も3月の末には全て完了する事が出来た。それから1 年間、現場を中心として殆ど休みなしの日々が続いた。全国あちらこちらから様々な応援があったが、真に私やサンホーム兵庫の事、強いては被災者の事を心か ら思い協力してくれたのは、サンホーム北九州の河田氏だけだった。以前に多少お付き合いがあり、経営の四方山話をさせて頂いた事に義理を感じ、無償で我々 の為に大工さんを貸して頂いたのである。久しぶりに"おとこ"を見たようで清々しく思った。今だお返しをしていないのが唯一気がかりである。
地震から2週間ほど経った頃、設計部長と営業部長と3人で所謂震災ルックに身を包んで神戸の街を観にいった。住宅産業に携わる者として、今後の住宅はどう あるべきかを探るために出かけたのであるが、私は段々気が滅入ってしまい、とてもその気分にはなれなかった。未だ地震が起きた原因は解明されていない。成 る程野島断層がくい違いを起こし亀裂が入ったのだが、じゃあ何故野島断層が?となると正確に答える事は出来ないと思う。更に将来における地震の予知ともな ると、もう人間の能力の遠く及ぶ処ではない。一瞬のうちに数々の犠牲を飲み込んでしまった、阪神淡路大震災から5年近くの年月が過ぎようとしている。先日 久しぶりにゆっくり神戸の街を歩いてみた。ものの見事に復興し、その跡形を探すのにも苦労するくらいである。そして何よりも恐ろしい事に、我々の心の中か らさえも時間はその記憶を拭い去ってしまうのである。我々愚者は、歴史からも経験からさえも学ぼうとしないのである。
司馬氏の見識を借りる迄もなく、20世紀は余りに効率のみを追求しすぎて、物で栄え心で滅んだ時代であった。我々は森羅万象あらゆる物、特に自然と共生 し、もう一度心の豊かさを取り戻し、輝かしい21世紀にしていかなければならないと思っている。そのために自分自身何が出来るか判らないが、明るく前向き に生きる事だけは約束する。

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