或る二世経営者のホームページ ~香山廣紀 かく挑み、かく歩む。~

或る二世経営者の挑戦


第一部 ~君は父親を越えられるか~


第一章 トイレで泣いた

今日から社内旅行だと云うのに、私はスーツケースを余分に持っていかなければならなかった。旅行の予定は2泊3日で、東京方面に行くことになっていた。一 日は、筑波で行われている科学万博を全員で見学し、残りの一日はゴルフをするコースと、最近人気沸騰の東京ディズニーランドへ行くコースとに分かれてい た。私は、科学博の会場の中で、21世紀になる日に届くメールを妻に書いた。その時は随分遠く感じていた21世紀も、もう6年余りになっている。どんな内 容だったか覚えていないが、その時の偽らざる気持ちを記した事だけは間違いがない、と思う。それにしても、あのメールは本当に届くのだろうね?郵政省さ ん!
ゴルフ組の我々と、ディズニーランド組と東京駅で合流し、私は皆を見送り唯一人残った。大学生活の4年間をこの東京で過ごした私は、大方の交通網は分かっ ていた。表彰式は明日の午後1時からである。今日中に、表彰式の会場である、京王プラザホテルに入ればいい。荷物は多少重たいが、来年には八王子に移転し てしまう我が母校、中央大学を見ておきたかった。
東京駅からお茶の水駅まで行き、聖ニコライ堂を左に見ながら、緩やかな坂道を下っていった。コンクリートの中庭も今は、懐かしく思えた。勿論、私の事など 知っている者は一人もいない。教室よりもよく通った雀荘、たむろした喫茶店、1日居ても退屈しなかった神田の古本屋街。私は、ふた月程バイトをし、その間 にいろんな思い出のあった名曲喫茶ウィーンに立ち寄り、コーヒーを飲んだ。コーヒーを飲みながら、3回も変わった下宿の中で、最も好きで忘れられない、椎 名町に行きたくなり、地下鉄丸ノ内線に乗った。池袋で西武池袋線に乗りかえ、一つ目の駅、椎名町で降りた。我々の青春期を凝縮させていたアパートは、5階 建てのマンションに建て替えられていた。息づく時代の変化を感じた。もう再び椎名町に来る事はないだろう、この町に改めて感謝をし、別れを告げた。「さよ なら椎名町!」
私は、紺色のスーツを着、ホテル内のレストランで軽い昼食を取った。今日は、全国の協業代理店の表彰式が、この京王プラザホテルで行われる事になってい る。昭和59年の12月から、昭和60年の3月迄の間に、メーカーからの部材の買上高によって、1位から50位までの会社を表彰する運びになっている。1 位から20位までが金賞で、21位から50位迄が銀賞である。新光ロイヤル住宅は10位にランクされていた。10年程前は、常に5位以内にランクされてい たが、ここ5年くらいは30位前後で低迷していた。
本来は、社長である父が出席するのであるが、結婚式があり、私が代わって出席する事になった。表彰式は1時間くらいで終わり休憩を挟んで、記念講演があっ た。引き続き5時頃から懇親会が催された。懇親会がたけなわになった頃、私を新光工事から新光ロイヤル住宅に呼び戻した張本人である、取締役近畿統括部長 が私の所へやって来て、「あんたは飲めへんけど、まあ形だけでも一杯つがせてよ、ほんまによう頑張りはったなぁ」と言って、ビールを一杯つぎながら、私の 肩を叩いた。私は、「有難う御座います」と言って、飲めないビールを一口飲んだ。そこまでが限度だった。私は、コップをテーブルの上に置きなんとかその場 を繕った。私は、その部長に軽く眼で挨拶をして、トイレに駆け込んだ。トイレのドアを閉めると同時に、声を上げて泣きくずれた。まさしく慟哭である。涙は いつ止まるとも分からなかった。肩を震わせ思うが儘に、泣き続けた。仕事で泣いたのは、岡山営業所にいた頃に一度あって、これが二度目だ、と思いながら…
ビールをついでくれた部長も、後にメーカーを首になり、現在は、私どもと同じ協業会社の社長をしている。規模的には、新光ロイヤル住宅と殆ど変わらない。 私は、今でも時々その方にいろいろと相談をし、教えを請っている。最近、メーカーの偉い人の中には、他人の心の痛みが解る人が少なくなったものだと思うの は、私だけであろうか?

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