或る二世経営者のホームページ ~香山廣紀 かく挑み、かく歩む。~

或る二世経営者の挑戦


第二部 ~豊かさと自由を求めて~


第一章 常務の死

あれは忘れもしない、1994年7月9日の深夜、正確に言えば10日の未明、午前0時を少し回った頃、自宅に電話のベルが鳴り響いた。こんな夜中にかかっ てくる電話は、良くない知らせか間違い電話しかないと、眠い眼を擦りながら、ボーッとした頭で受話器を取った。電話の主は営業開発課の八木課長だった。
「遅くからすみません。粟倉常務が入院されました」
私は以前に粟倉常務が胃潰瘍で入院して手術したことがあったにも係わらず、その後もあまり養生している様子がなかったので、また再発でもしたのかと思った。
「それで、事故?病気?」
「ええ、くも膜下出血で倒れられて入院されました。赤穂市民病院です。私もこれから行きます。また報告します」
「なんやて、クモマッカ?やて」
「はい、そうです。」
「クモマッカ、いうたらあのクモマッカ、かいな?」
「はい、あのくも膜下出血です。脳の」
「それで、意識は?様態は?」
「わかりません。少し前に奥様から連絡があったので、詳しいことはわかりません。とにかく行ってきます」
「私も行きます。赤穂市民病院やね」
ただならぬ様子に家内もいつのまにか目を覚まし、私の側に心配そうに立っていた。事情を話しこれから出掛けることも伝えた。私は顔を洗い着替え、家内の 「気をつけて」と云う言葉を背中で聞きながら、車のエンジンキーを回した。
途中、年に2~3本しか飲まない缶コーヒーを買って飲んだ。今でもその冷たい感触が歯に残っている。病院までの道程で、様々なケースを想定し、そのケース に合わせて対策を考えた。入院が長期に渉った場合、万が一の場合、粟倉常務のポストは?葬式は?退職金は?しかし、思い直して車の運転だけに集中するよう 自分自身に言い聞かせた。何故なら、今自分が何処をどう走っているのか自覚がないような状態になっていたからである。
病院へ着くと、奥様と子供達と親戚の人がおられた。型通りの挨拶をし、様子を聞いてみたが詳しくは分かるはずもなかった。その日の午後、主治医の先生に自 分の立場と会社の事情を話し、現在の様態とこれからの見通しについてお伺いをした。
「先ず脳が膨張してきたので手術を行ないます。開けてみないと詳しくは分かりませんが、勿論最善の努力はします。良くなる可能性は極めて低いですが、仮に命は取り留めたとしても社会復帰はまず無理だと思われます」
正確には覚えていないがこのような内容だったように記憶している。
私はすぐさま2人1組でペアを組ませ、三交代制、つまりAM6時からPM2時まで、PM2時からPM10時まで、PM10時からAM6時までの3つのグ ループを作り、比較的時間のやりくりのつく幹部を中心にローテーションを組み、病院の待合室で待機し文字通り寝ずの番をし、何事があっても即座に対応出来 る体制で臨んだ。私は毎日AM6時からPM2時までのグループに入り、ほとんどの業務を停止させ、1年前に完成した赤穂の体感モデルハウスに泊り込み、そ こから会社に通ったり自宅へ着替えを取りに帰る日々が続いた。幹部連中の心の中は解らなかったが、余り文句も言わずによく協力してくれた、と今でも感謝し ている。何もかも済んでしまってから聞いた話であるが、この時の対応に感動したという社員も数多くいたらしい。別段意図したわけではなく、その時その時 いったい自分に何が出来るか、また何をすることがその人にとって最も大切なのか、考えて行なっただけであった。でも実のところ危機管理のポイントはその辺 にあるような気がする。一方粟倉家のために最寄りのホテルの一室を借り切って、いつでも誰でも休めるように配慮した。
だが発病後10日目の1994年7月20日午前8時過ぎに、粟倉常務は亡くなった。享年52歳。今の私より2つだけ上である。私は粟倉家とサンホーム兵庫 との合同葬にすることに決め、その準備に追われた。式当日、父である社長についで弔辞を詠んだ。
 

『弔 辞』


粟倉さん、あなたは無責任な人です。私を残し、私達を残し、唯一人去ってしまうなんて。本当に無責任な人です。一体私達は、これからどうすればいいのですか。
私とあなたの関係は所謂「あ・うん」の呼吸でした。二人の間では「これこれして下さい」とか「これは駄目です」などという会話は必要ありませんでした。お 互いの信頼関係の上で、何事も行なってきました。私はわがままで気ままで好き放題を言い、行動してきました。あなたはそんな私をいつも陰で支えて下さいま した。あなたは、私の絶大なる防波堤でした。
今、一番困っているのは、私です。何故あなたはそんなに急いだのです。もっともっとやってもらいたいことが沢山あったのに..、やっとあなたも少し楽が出 来るようになったのに...。実は、私はあなたを含めた役員とその奥様と正月休みにでもハワイへ行こうと考えていたのです。それくらいの贅沢をさせても らってもいいのではないかと思っていたのです。私はあなたに対して、なにひとつ報いることが出来なかった。私はそれが悔やまれてなりません。どうか許して 下さい。
わずか52年の人生のうち、私は20年以上もあなたと係わってきました。特にこの10年は私のよきパートナーとして相談相手として、時には兄として頼って きました。あなたには迷惑だったことも少なくなかったと思います。しかし、私の心の拠り所でした。
『短い人生やったけど、まあまあ充実した人生やったで。副社長と一緒に仕事が出来て良かったと思てるで』
と、ひとこと言って下さい。あなたの口からその言葉を聞きたい。そう言って下さったらどれほど私は救われることでしょう。
最後の最後まで私は又、あなたに甘えようとしています。あなたが7月9日に倒れられてから今日まで私はまだ夢を見ているようです。夢であって欲しいと願い続けています。今にも、
『副社長、それは違いまっせ、こないせなあかんで』
と、あなたが話し掛けてくれそうな気がしてなりません。夜を徹して行なった研修会、ゴルフでパーを取った時の嬉しそうな顔、美味しそうにビールを飲んでい た姿、厳しい表情で部下を説得していた様子...。思い出は尽きません。
私は今日を境にこの現実を、あなたがいない現実を見つめます。そして立ち直ります。そうしないといつまでもあなたに負担をかけることになりますからね。で も、約束して下さい。私が間違った方向に進み出したら、必ず私を諭してください。あなたと共に目指した百億円企業も、もう手の届くところまできました。そ れをあなたと一緒に喜び合えないのはまさしく断腸の思いですが、それも仕方ありません。人は生き、そして死にます。今度もし生まれ変わっても、私はあなた と仕事がしたい。その時は嫌がらず付き合って下さい。
いよいよお別れです。株式会社サンホーム兵庫常務取締役事業本部長、粟倉務さん、さようなら。
粟倉さん、本当にさようなら...。

株式会社サンホーム兵庫
代表取締役 北見俊介


私は葬式が終わってもゆっくりはしていられなかった。常務のいなくなった後の人事と、退職金をどうするか、という重要な問題が残っていた。すぐさまグルー プの代表取締役会議を開いてその検討をした。メンバーは、父である新光建設代表取締役社長兼サンホーム兵庫代表取締役社長北見辰男。妹婿の新光建設代表取 締役副社長高橋哲也。私のお目付け役だった新光住宅産業原山社長。それと私サンホーム兵庫代表取締役副社長北見俊介の4人である。冒頭私は、
「本日はお忙しいところ集まっていただき有り難うございます。故粟倉常務の亡き後の人事及び死亡退職金支給についてご意見をお伺いしたいと思います」
と丁寧とも事務的ともとれる挨拶をした。
人事については、その年の株主総会ですでに取締役に選出されていた細田戸建事業部長を、粟倉常務の後釜にし取締役事業本部長に川上、山脇両部長を取締役に 推挙し、川上部長を細田本部長の補佐役に付け、取締役事業副本部長にし、山脇は取締役サンライフ事業部長とした。空席になった戸建事業部長は3人の次長、 すなわち営業次長、工事次長、設計次長の三頭政治で今期だけはとりあえず乗り切るようにした。
「何故役員を増やす必要があるのか?年齢が若すぎるのではないのか?特に川上は成る程うちに来てから10年は経っているかもしれないが、正式にメーカーを辞めてからはまだ2年も過ぎてないのではないか?」
父と高橋君の意見はおおよそこのような内容だった。予想されたことだったので私は難なく押し切った。がしかし、退職金については相当な抵抗に遭った。多す ぎる、前例を作っては駄目だ、の一点張りだった。せいぜい三千万くらいがいいところだと言い張るのだった。吉田社長の強い後押しでどうにか当初の金額に近 い額で了承をしてもらい、早速メーカーの幹部にアポイントを取り、本社に出向き事情を説明し賛同を得、形式だけの臨時株主総会を開き、正式に決議事項とし た。その間わずか10日だった。まさしく電光石火の早業だった、と5年も経った今でも感心している。同情の気持ちが回りの人に残っている間に、出来る限り 早く決めてしまおうと取り組んだのが功を奏した、と思った。
私は細田事業本部長を連れて、初盆であるその年の8月13日に粟倉家を訪れ、帰り際に退職金を小切手にし封筒に入れて奥様にお渡しをした。一応領収書を頂 かないといけないので、金額の確認をして戴いた。その瞬間奥様は、涙、涙で自分の名前さえ手が震えて思うように書くことが出来ず、挨拶も言葉にならなかっ た。安い退職金だったとつくづく思った。
お墓が出来てからは8月にお参りさせていただき、年末は自宅に御仏前をお持ちしている。5年が経過したことと、御子息を預かるようになったのを機に、今年 からは8月のお墓参りだけにさせて頂いている。でもやはり今でも私の近くに粟倉常務が居られるようで時々気配を感じ振り返ってしまう。この4月に私の息子 が入社してくる。1年先輩の粟倉君とうまくやっていって欲しいと願っている今日このごろである。

■PDFで読む