或る二世経営者のホームページ ~香山廣紀 かく挑み、かく歩む。~

或る二世経営者の挑戦


第一部 ~君は父親を越えられるか~


第一章 アパート事業の展開

本日の午前11時に、以前私のお目付役だった新光建設の吉田専務と、新光ロイヤル住宅の前任者だった原山専務がお揃いで来る事になっている。用件は分から ないが、多分新光ロイヤル住宅の再建についてであろう。私は物置小屋の様な、日の当たらない社長室兼応接室で待っていた。
二人の話はこうだった。
「おまえはアパートを大変な勢力を注ぎ込んで売ろうとしているらしい。社長から聞いたのだが、余りに危険が多いと思う。いくら社長が止めても聞かないそう だから、社長に頼まれて我々が来たのだ。東京とか大阪ならいざ知らず、こんな田舎町でアパートなんて売れる訳がない。第一入居者などない。現に、原山専務 もアパートの営業をしてみたが、全然駄目だったと、言っている。いや、売るなとは言わない、もっと小規模で試してみるのだったら良いと思う。軽くジャブを 打ってみたらどうか、本格的に取り組むのはそれからでも遅くはない。住宅の基本は戸建てである。どうしたらもっと戸建てが売れるか考えたらどうか?お前は この会社を潰すために来たのか!お前は若い、無茶をしてはいかん。ここの所は我々の意見を素直に聞いておけ」
「私は、この新光ロイヤル住宅を伸ばすためにアパートを売るのです。裸足の生活をしている国へ行って靴が売れると言った商社マンと、売れないと言った商社 マンの話を知っておられるでしょう。私はこの地域でアパートが新築されていないので、売れると思っているのです。なるほど基本は戸建てだと思います。しか し、戸建ては1棟が1,200万くらい(昭和59年)です。でもアパートは1棟当たりその倍の2,500万にはなります。生産性が違います。今、この新光 ロイヤル住宅を救うのはアパートを売るしかないと思っています。やらせて見て下さい。お願いします」(心の叫び。お目付役だった吉田専務が言うのはまだ許 せるが、新光ロイヤル住宅の前任者だった原山専務にそんな事を私に言う資格があるのか。新光ロイヤル住宅をここまで追込んだのはあんたやないか!あんたは 一級戦犯やないか!)
そんな話が繰り返し繰り返し延々と3時間続いた。専務達は最後には半分諦めたのか「出来るだけ本業に支障のないようにやれ」と言い残してやっと帰っていっ た。私は遅い昼食を1人で取りながら、言いようの無い憤りとふつふつと湧き出る迷いとが交錯していた。
早速2人の部長を呼んで、アパート事業についての私の熱い想いを話した。結論から言うと2人とも消極的に賛成だった。私はどちらかの部長に担当して欲し かったが、それが無理である事を感じた。私は、アパート部門の営業部長になる決心をした。2人には戸建てを頑張って貰うよう伝えた。
今朝の朝礼は少し長くなった。私は、これからの住宅業界について話をし、アパートは必ず売れると力説した。そして最後に全員に眼を瞑らせて、「今、私が話 をしたアパートについて、営業をしたいとか、工事に携わりたいとか、設計の仕事をしてみたいとか、本気で思った人は手を上げてください」と言った。1人も 手が上がらなかったらどうしよう、と一瞬私自身も眼を瞑った。眼を開けてみると22~3人の手が上がっていた。私はこれでアパートは成功すると確信した。 その中から営業を4人と、工事、設計を1人ずつ選んだ。事前に頼んでおいたメーカーからの出向社員3人を営業に加え、アパート部門は10人でスタートをし たのである。
スタートはしたものの、どうやって売ったらいいのかノウハウが何ひとつなかった。まず営業の中に、新光工事から私が連れてきた者がいた。名前は山脇と云 う。その社員を、岡山でアパートをよく売っているメーカーの代理店にお願いをして1ヶ月間勉強の為に預けた。残った我々は来る日も来る日も勉強に明け暮れ た。収支計算の仕方、相続税の算出方法、不動産所得とその他の収入合算をした場合の税金控除の計算式、チラシの作り方、見込み客の探客方法等、夜の10時 頃まで行った。
そうして1ヶ月があっと云う間に過ぎ、岡山の代理店に預けていた山脇社員が帰ってきた。我々は堰を切ったように行動を開始した。我々が知識武装をしている 間に、設計に選んでいた社員が画期的な見積方法を考え出していた。心強い限りであった。
アパート部門において、我々は3つの約束をした。ひとつは、当時アパートの商品として2種類あったのだが、高級商品を主として売ること。ふたつ目は、この 年末には必ずアパートのオーナーズクラブを創立し、25組のオーナーを集めること。今ひとつは、営業全員が帰社するまで帰らず待っていて、その日と明日の ミーティングをする事、だった。高級商品に絞ったお陰で、1棟当たりの単価が高くなり、昭和59年3月より59年12月迄に35棟の契約をし、契約高も 10億を超す事が出来た。現在も続いているオーナーズクラブも今年で(平成5年)第10回を迎える。供給戸数も3000戸をはるかに超えている。唯残念 だったのは余りにハードな営業方法を取ったものだから、若い営業マンが、1人辞めていった事だった。
「感謝状。貴方は、昭和59年10月より昭和60年3月迄の間に、4億1,000万の受注をしてくれました。よってここに感謝の微意を証します。」と言っ て、私は岡山に実地勉強に行っていた山脇社員に全員の前で感謝状を贈った。副賞として、ゴルフ会員権を付けて。贈られた方はどうだったか、聞いていないの で分からないが、贈る方の私は感激で一杯だった。ありがとう、心からそう言えた。その彼のエピソードをひとつ紹介しよう。
たまたま彼は或る月受注がゼロであった。彼は悔しくて情けなくて会社に何時になっても帰って来なかった。私は何も言わず黙っていた。それから3年程経って から、何かの研修会の席上で、その時の事をちらっと漏らした事があった。あの時は自分自身に腹が立って、悔しくて気が付いてみると、自分の実家の近所の畑 にいたそうである。そこで、彼は大声で涙を流して泣いたそうである。生まれて始めての涙だった。しかし、その畑は自分の涙を見ていると思い、何年か後にそ の畑を買取ったのだそうだ。
私は岡山に勉強に行っていた彼に感謝状を贈った昭和60年3月にアパート部門を、東地区の戸建てを担当していた粟倉部長にバトンタッチした。名称も特販事 業部と変えた。私は、アパート部門からの引き際も良かったと思っている。現在4つの事業部があり,それぞれに部長がいるが3人までがアパートを売ってきた 同志である。特別に引き立てたつもりはないが、結果としてそうなっている。残りの1人の部長も新光工事から連れてきた社員である。業績は他の協業会社から 比べると、大したこたはないが、頼りになる幹部達が私の唯一の自慢である。味のある2人の常務と逞しい4人の部長が私の財産である。

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