或る二世経営者のホームページ ~香山廣紀 かく挑み、かく歩む。~

或る二世経営者の挑戦


第一部 ~君は父親を越えられるか~


第一章 リフォーム課を新設

昭和58年に新光ロイヤル住宅の経営を任されてから、半年毎に組織を変更してきた。先ずアパート部門をつくり、特販事業部と名付けた。私はその特販事業部 の部長を兼任し、粟倉部長は、戸建の東地区の担当部長であり、井上部長は同じく戸建の西地区の担当部長だった。社員総数は全員で55名位だった。東地区も 西地区も、それぞれ20名程、特販は10名だったように思う。ピーク時には特販で全社数字の半分の受注を上げた記憶がある。1年半で、私は粟倉部長に特販 事業部を引き継いだ。60年の4月だったように思う。当然、戸建は全て井上部長が担当をすることになった。
小さな変更はあったが、この後1年間は組織を触らなかった。61年に2人の部長を私はグループの取締役会議で、新光ロイヤル住宅の取締役に推薦をし、承認 された。2年後には常務になり現在に至っている。その間には、或る都市銀行から出向してきていた総務課長を首にして、出向先の銀行に引き取って貰った関係 上、私は総務課長を兼任して、慌しい年月が経過していった。
折からのフォローの風に乗り、アパート事業の方はかなり順調に推移していたが、戸建の部門は伸び悩んでいた。色々と分析をしてみたが、どう考えても一人当 たりの受注金額が余りに低いように思えた。今現在も、近畿地区では低い低いと言われ続けているが、当時はもっと酷かった。原因ははっきりしていた。パレー ト図を作成したり、ABC分析をするまでもなかった。また、私はそんな分析は苦手だった。友達やいろんな人に、「お前は何を基準に事業を経営しているの か」と聞かれるが、いつも勘とヒラメキでやっていると、答える。ほとんどの者は馬鹿にしたような眼で私を見つめる。でも本当なのだからそれ以外に答えよう がない。
私は、全員を集めて、リフォーム事業の大切さを話した。3兆円市場である事、4千件以上もある我々のお客様を対象にすれば営業は無限にあり楽に契約があが る事、粗利益率が25%とれる事、不況に強い事、大企業では小回りが利かず出来ないこと、最終目標は日曜大工センターの店があるがそれにある品物を付加価 値を付けて出前するようにしなければならない事。
私は、心と裏腹の事を話した。目的は他にあった。と云うのは、戸建の営業マンが、特に成績の悪い者が、1ヶ月ゼロでは上司に叱られるので、100万から 200万の増改築の受注を取ってきていたのである。とにかく、幾らかでも契約をしてきてお茶を濁していたのが現実だった。それも酷いのになると2ヶ月に1 件位で、誤魔化していた。それでは生産性が上がるはずがない。リフォーム課をつくり、今後一切戸建の営業マンの増改築の受注を禁止した。引き合いがある場 合は、リフォーム課に紹介をするように命じた。それでも3ヶ月位は戸建の営業マンが増改築を受注していたが、その都度きつく注意をした。今までなら、契約 をして褒められていたのに、逆に怒られるのだから段々契約をしなくなった。そうすることで、少しは一人当たりの契約金額が上がっていった。リフォームとい う新しい部署をつくることによって、はっきり言えば、リフォームを犠牲にして戸建を伸ばそうと考えたのである。リフォームに配属された社員に対して、申し 訳なくて本心など言えるはずがなかった。この事は今でも私の胸の中に収めている。本音と建前とを使い分けた最初で最後の、苦肉の策であった。今になって初 めて解ったのだが、戸建の伸び悩みの原因は他にあった。しかし、当時はそれを知る由もなかった。
捨て石に使ったリフォーム課だったが、私の思惑とは反対に業績はどんどん上がっていった。皮肉な事だった。業績が上がるのだったらそれはそれで結構なこと だなどと鷹を括っていたが、最初から伸ばすつもりで準備をして取り組んでいなかったので、当然何処かで無理が生じてきた。クレームの山と、それに伴う回収 不能が発生したのである。私はその時になって動機の不純さを悔やんだが後の祭りだった。慌てて規模を縮小したが、事後処理に追われる1年が続いた。ツケは きっちり払う羽目になった。
今は純粋に思っている。前に記した様々な理由で、リフォームを何とか年商10億にしたいと考えている。おそらく平成6年の4月には素晴らしい組織が出来上 がり、名実共にリフォーム事業部として生まれ変わっていることだと信じている。そして、出来るだけ早い時期に別法人にして、様々な苦労をさせた、今の事業 部長を社長にしてやりたいと思っている。その時初めて、私の単なる小手先で行った人事について、責任を果たした事になる。その為には、出来る限りの応援を したいと考えている。

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