或る二世経営者のホームページ ~香山廣紀 かく挑み、かく歩む。~

或る二世経営者の挑戦


第三部 ~すべてはお客様のために~


第三章 どうなる北見家?

私の父は北見辰男という。今年(2007年2月1日現在)81歳である。耳は少々聞こえなくなっているが、それ以外は全く身体的に悪い箇所はない。懸かり つけの医者からもあと10年は保証されている。地元である宍栗市の商工会長と納税協会の副会長も兼ね、いまだ自分は有能な経営者だと思っている。私以外の 人たちはお世辞しか言わないし、なまじそこそこの公職をしているものだから、本人がそう思うのは無理からぬことかもしれないが、はっきりこの場で申し上げ ると、過去の人である。それも相当過去、30年くらい前の経営者である。いくつかの成功体験から抜け切らず、自分の言うことは誰もが聞き、そしてやってく れると信じている。かつては彼の回りには俗に言う『良い番頭』がいた。彼は決断だけすればよかった。マネージメントはその『番頭』が全てやってくれたか ら、少々の度胸と『勘とひらめき』(これは大切である)があればよかった。しかしながら私が新光建設の経営を担当する以前、即ち妹婿が番頭だった15年 は、父の弱点を露呈する結果となってしまったのである。なぜなら妹婿は『良い番頭』ではなかったからである。父は彼を今までの『番頭』と同じように、いや それ以上に信じて全てを任してしまった。そこから全ての悲劇が始まったのである。
私は今、新光建設の社長を平田君(ニューマテリアルの社長だった。その人事については次章で詳しく述べる)に譲って、新光建設の会長である。では父はとい うと相談役である。昨年5月頃に新光グループの一連の人事について父に了解(大株主であるから)を得るため構想を話すと、烈火のごとく怒り聞く耳を持たな かった。「わしから何もかもを取り上げる」というのが彼の言い分だった。私はすんなりいくとは思っていなかったので、その場は引き下がった。翌月また行く と「あの話か?あかん言うたらあかん」と言った。私は「わかりました。それでは私は社長を降りますから、あなたが社長をもう一度して下さい。なんなら私が 会長になりますから」と言った。父は「勝手にせえ」と言って自分の部屋から出て行った。私の勝ちである。後日地元企業の先輩である、同じような境遇に在っ た人と話す機会があり、その一連の話をすると、「北見君、お前ようやったな。わしは親父を会長にまではお願いをしたが、それ以上は出来なかった。だから死 ぬまで会長だった。なかなか出来ないことだ。お前豪いなあ」と妙な褒め言葉を戴いた。
丁度その時期にサンホーム兵庫の代表取締役会長を辞めていただき、平取締役になってもらった。そのお願いをしたときに、退職金の話になった。私は「65歳 くらいで辞めるのなら払いますが、今あなたは80歳です。この15年間払い続けた報酬が退職金だと思ってください」と言った。また功労金についても同じ で、今の会社の状況からして払える状態ではない、と断った。結果的には少しだけ支払った。父は予想していなかったのか、たいした額でもないのに「息子が退 職金をくれた」とある会合で親しい人に話していたそうである。金は上手に使うべきだとつくづく思った。
今父は、新光建設では『代表取締役相談役』、サンホーム兵庫では『非常勤取締役』、ニューマテリアル兵庫においても『非常勤取締役』である。それ以外の企 業では役も地位もない。それも多少気の毒なので2007年の初出式に於いて私は、父を全グループの『オーナー』と位置付け、呼称もその呼び名で呼ぶよう に、と全社員に伝えた。同時に対外的にも『オーナー』と言う呼称を広く宣言し、彼もプライドが保てるように配慮した心算である。
しかしながら彼には悪いが、彼は経営者としては従業員30人までの社長である。企業はその規模に応じて理念や哲学を変えていかなければならない。企業を起 こす人物は、人より少し良い生活がしたい、人に使われるより人の上に立ちたい、社会的にも認められたい、などの願望が強い人物である。そのモチベーション は大切であり、そういう人がいなくては企業を起こすことが出来ない。起業家として彼は十分な素質はあったのである。しかし企業は生き物であり、規模に応じ て変化していかねばならない。『マイカンパニー』から『アワーカンパニー』、そして『パブリックカンパニー』へと、ミッションを変えなければならないので あるが、残念ながら彼はそれが出来なかった。また優秀な番頭も所詮番頭であり、経営トップではない。私は彼に何回言ったであろう、そしてまたこれからも幾 度言わなければならないであろう、以下のことを。「申し訳ないですがあなたは社員に対して〈ご苦労さん、がんばってくれているなあ、頼むで〉だけでいいか ら言い続けてください。お願いしますよ。社員が全て辞めたらあなたと私だけでは何も出来ないのですよ。社員がいるから会社は成り立っているのですから」 と。
父は今も毎日会社へ来る。土曜も日曜もない。来てもすることはないはずなのだが、来る。彼は彼なりに心配で心配で仕方がないのであろう。私が新光建設の社 長をするまでは、会社の借り入れは全て彼の個人保証で起こしていた。勿論彼の家屋敷や彼の財産全て担保に差し入れてである。私はその全てを解消させた。金 融機関はかなりの抵抗をしたが、私は頑として譲らなかった。私の母がなくなって3年が経過した。今父の自宅には〈お手伝いさん〉とも〈内縁の女性〉とも区 別のつかない人に来てもらっている。それも私より若い人である。私は遺言書と交換条件にそのことを許した。私はプライベートなことは何一つ口を挟む心算は ない。彼の人生だから、自分の好きなようにすればいいと思う。しかし、こと事業に関してはそうはいかない。企業は〈北見辰夫〉の所有物ではないからであ る。私が現役のトップでいる限り父と子の、現在の経営者と時代錯誤の経営者との確執はまだまだ続くであろう。それも私の大きな仕事のひとつであると、諦め ている昨今である。
私には2人の妹がいる。上の妹はこの四方山話にも再三登場する高橋君の伴侶で、私とは勿論父とも今は行き来が途絶えている。もともと彼女とは合わなかった が、ある時期宗教上のことで私と大激論になり、それ以来会っても挨拶程度の当たり障りのない会話しか交わした覚えがない。彼女は〈エホバの証人〉に入信し ており、今も積極的に布教活動をしているようだ。私は神の存在は信じるが、まずお金がいる宗教は端から信じない。次いで他の宗教を否定する宗教もだめだと 思っている。何故なら、それが今地球上に於ける殆どの争いの根本的要因になっていることから判断しても明らかである。また執拗な行き過ぎた布教活動を行う 宗教も俄かには信じ難い。その意味からしても彼女との接点はこれからもないと思われる。
2003年の事件以前は、高橋家と私の両親との関係は私よりも遥かに強く、と言うよりむしろ私を含めた私の家族と両親とは、家族という意味に於ける関係は 希薄であった。例えば、高橋家の長女が成人式を迎えた時に立派な晴れ着を買ってやったが、私の長女の時は何一つなかった(決して僻みではない。誤解のない ように言っておくが、そのようなことは我々の中では日常茶飯事の出来事であって、ああそうか、といった感じでごく自然に受け止めていた)。だから私は相続 権を放棄するつもりでいた。まさかこのような事態になるとは夢にも思っていなかった、というのが本音である。父は完全に『高橋教』の信者であったし、リ モートコントロールに近い状態であった。あの事件直後も、私は大反対をしたにも関わらず、高橋君に退職金まで払ったし、『フロムゼロ』(この胡散臭い会社 が諸悪の根源であったのであるが、今はもう消えてしまって影も形もなくなっている)が取り扱う「生ゴミ焼却機」を広く宣伝し、下職の人達に半ば強制的に自 らが売りつけたりもした。しかし私は物欲と言う意味では、"根に持つ"タイプではない。あの事件が一段落した時に私は妹に離婚を勧めた。離婚を条件に生活 の保障を提案したが、彼女もまた『高橋教』の亡者であり、聞く耳は持ち合わせていなかった。しかしながら人生はまだまだ長い。『窮鳥懐に入れば猟師も殺さ ず』の例えもあるように、いつかその日が来るような予感はしている。
今一人の妹はある意味可愛い。彼女は出産時には股関節脱臼で生まれ、3歳の頃に交通事故に合い、一命は取り留めたとはいえ、今も左の手の甲にその傷跡は 残っている。この二つの幼児時代の不幸のため、我が家では唯一甘やかされて育った。それ故今も我侭である。が、愛嬌のある我侭であり、私は嫌いではない。 二人の女の子に恵まれ、一人は結婚をし、もうすぐ初孫の出産の予定である。下の子供には多少手を焼いたが今は明るく元気になり、学生生活を楽しんでいる様 子である。父が今住み込みの〈お手伝いさん〉に来てもらう時に、妹に気を使いそこそこの金額を渡したのであるが(私にはなかった)、彼女の生来の気の好さ から私にすぐさま連絡をしてきた。「お兄ちゃん、どうしょう?」と言うので、私は貰っておけ、私に遠慮は要らん、と言ってやった。主人は熊本県人で松下関 連の企業に勤めており、なかなかの好人物である。勿論しょっちゅう行き来がある。
私の長女は『亜由美』といい、今もウィーンに住んでいる。もう何年くらいになるであろう、彼女が日本を離れオーストリアに住み始めて、たぶん6~7年には なると思う。妻は2回彼女のもとを訪れたが、私は行きたいと思いながらまだ一度もいっていない。今年あたり行きたいと思っているが、長期の休みが取りづら いので実現していない。彼女はウィーンで音楽学校へ通いながら声楽家を目指している。彼女も34歳になっているはずであるから、そろそろその夢を実現して もいい頃ではあるが、才能と努力だけではなかなか花も開かず、いろいろとオーディションを受けているようだが、声楽家として認められるところまでいってい ないのが現実である。しかし彼女はそう簡単にはへこたれない。私などよりも遥かに精神的に強く逞しい。持ち前の明るさと粘りにはほとほと感心する。その見 上げた根性に私たち夫婦もついつい応援してしまうのである。『諦める』と言う言葉は彼女の辞書にはどうやらないようである。もうこうなればとことん付き合 うしかないと腹を括っている昨今である。一年に一度くらいの割合で帰国するが、今年はいつ頃になるであろうと心待ちにしている。帰国の楽しみは家族でゴル フをすることである。お世辞にもゴルフと言えたものではないが、私の大きな楽しみの一つである。
長男は名前を『司』と言う。親馬鹿かもしれないが、彼は最近しっかりしてきたように思う。2006年の10月に大幅な人事(それについての詳細は後述す る)を行った時に彼を、新光建設の常務として住宅部門の責任者に抜擢した。それまで彼はサンホーム兵庫に入社以来6年間住宅の営業をしていたが、全国表彰 を受けたのを契機にお客様満足センターに配転し、主にアフターサービスを担当させていた。本当はもう1年くらいはアフターサービスの仕事をさせたかったの だが、新光建設の特に住宅部門の重苦しい閉塞感を打破するには彼の明るさが最適だと思ったのである。それと山脇に変わりうる人物としては彼しかいなかった し、新光建設の経営状態は、彼を含めた一連の人事の刷新を1年間も待てる状況にはなかった。実績としてまだ目を見張るものはないが、その兆候を私は感じて いる。1年後を大いに楽しみにしている。
彼とは様々な会議やプロジェクトが一緒である。彼はたまたまだと思っているかどうかは知らないが、全て私が仕組んだものである。先ず新光建設での取締役会 議。彼を常務にする1年前に非常勤の取締役に就任させ、1年間新光建設を横から見させていたのである。新光建設ではその取締役会議と、総合戦略会議は私が 議長であり、当分譲る心算はない。それらの会議の中で彼がどう学ぶか私は試しているのである。ザ・家プロジェクトにも最初から参加させている。以前にも述 べたがザ・家プロジェクトは、文字通り『家』とは何か?を模索し、それを形にし、モデルハウスまでオープンしたが、マーケティング的には所謂『ブランド』 つくりである。当時彼はサンホーム兵庫で営業をしていたのであるから、なぜ新光建設のザ・家プロジェクトに参加しなければならないのかと、疑問に思った筈 である。私は近い将来新光建設の住宅の責任者にする路線をもうその頃から引いていたのである。勿論今ネットワークで最大のプロジェクト『315』にも参加 させている。多分彼は、私の事をよくもあんなに次から次へといろんな思考やアイデアを思いつき、それが言葉になって出てくるものだと、感心したり呆れたり していると思う。僕には無理だと思っているかもしれない。もしそう思っていたら此処でその秘訣をお教えておこう。簡単なことである。本当に命が尽きるほど 真剣になれば誰にでも出来るのである。心配は無用である。彼には私にないものがある。ひとつは『若さ』であり、いまひとつは『人懐っこさ』であり『明る さ』である。焦ることはない。お前はお前の信じる道を行けばいい。私は私の全てをお前に授け、私のエネルギーの続く限り応援する。
次男は『伸二』と言う。彼は我々夫婦にとって頭の痛い存在であった。『あった』、そう過去形なのである。高校時代に何かがあったのだろうが、それについて 彼は私達には語らない。唯一長女には少し話したらしいが、本当に少しで全ては彼の中にあり、我々の知る所ではない。しかし3年ほど前に我々のやっとの思い の説得が通じたのか東京から引っ越し、今は姫路と我々の自宅とを往復する生活を送っている。高校までは明るく誰からも好かれ本当に『いい子』だったが、卒 業後1年間の浪人生活と、訳の分からない東京の専門学校生活も含めた6年間は、全くの空白であった。帰郷したのをきっかけに『宅地建物取引主任者』の資格 を取得することを私が勧めた。幸いと言うか新光建設にその資格取得者が全く不足していたので、その資格を取って私を応援して欲しいと言った。彼は見事に合 格し、その資格を生かす意味で新光建設に嘱託として配属したのである。なぜ嘱託かというとまだまだ勉強して次の資格、即ち『社会保険労務士』の資格を取得 し、全グループの顧問として業務をして欲しいからである。そのためにも自由な時間を彼に与えるために敢えて「嘱託」と言う身分にしているのである。しかし 彼は長男とは違って生来の生真面目な性格からか手を抜くことが出来ず、嘱託とは名ばかりで正社員並みの、いやそれ以上に何やかやと便利に使われ、業務に追 われているのが現状である。
また彼は昨年から名目上ではあるが、㈱シンコウホールディングの社長でもある。この会社は北見家、主に父の財産管理会社として昨年まで休眠状態にあった 『新光団地㈱』の社名を変更し、新たに『㈱シンコウホールディング』として発足させた。発足当時の目的はそうであったが、社会情勢の変化と新たな需要を喚 起させたのか、今現状は借家業の方が本業になってしまっている。と言うのは、世の中には先祖から土地を受け継いだが売るにも売れないし、持て余し気味でど うすればいいか悩んでいる人も多くいる。その人々に、『ローリターン、ローリスク』だがひとつの解決策として、事業用の定期借地権契約を締結し、その地主 の持つ土地の上に『シンコウホールディング』がアパートを建築し、借家業を営むと言う新たな金融商品を、数社の金融機関と私とで開発したのである。当初は 年間10億くらいもあれば十分、と思っていたが予想を遥かに超え15億に迫る需要があり、新たにその枠を設定し直している現況である。それらに伴い、例え 名目上の社長とは言え彼には煩雑な業務が降りかかって来る。何せ従業員のいない会社であるから、彼が銀行とか役所にも出かけなければならない。手を抜けな い彼には自然とストレスがたまるのだそうだ。彼のストレスの発散方法は安価である。『コンビニ』通いが彼のストレスの発散である。しかも買わない、立ち読 み専門である。店員からは最も嫌われるタイプである。なぜ買わないか?答えは簡単である。お金が要るからである。彼は我々の想像を遥かに超える『けち』な のである。給料は手取りで16万位で、姫路の家賃(6万)は自分で払っている。が、しかしなぜか貯金は200万くらいある。私は彼に教えられた。お金をた めるコツは唯一『使わない』ことである。そういう意味からしても彼には全グループも北見家も全て含めた、所謂『金庫番』が最も相応しい地位だと思ってい る。だが彼の夢は大きい。『馬主』である。得体が知れないところが彼の魅力でもある。
最後は勿論妻『真沙子』の登場である。彼女はとっても忙しい。どれくらい忙しいかというと、私くらい忙しい。私はあまりよく認知していないが次男が全て掌 握しているので、彼の説によると、まずママさんコーラスだが、三つのサークルに入っているらしい。次いでパッチワーク(これはもう20年近い)・水泳・ち ぎり絵・七宝焼き・生き生き健康講座・大正琴・お花・山歩きの会、それに最近だがフラダンスも始めたらしい。これらは趣味だが、地域では婦人会活動は勿 論、仏教婦人会活動をしている。これがまた大変忙しい。宍粟市では会長であり、兵庫県では副会長をしており、昨年はハワイで世界大会があり、それにも勿論 日本代表の一員として参加した。朝晩は愛犬「官兵衛」の散歩もある。だから当然風邪など引いている暇はない。  彼女との馴れ初めは、私が大学2年くらいの時に中学の同窓会があり、その時に私が彼女の変身振りに胸を驚かせたのがきっかけで付き合い始め、そのまま結 婚に結びついたのである。だから彼女とは同い年である。でも彼女のほうが私より数段若く見える。それほど彼女は健康的で活発である。また彼女は裏表がな い。だから私に時々遠慮のない言葉を浴びせる。が、決して喧嘩にはならない。何故なら私は負けることがわかっているから。結婚してこの方一度も夫婦喧嘩と いうものをしたことがない。それ故子供達も夫婦とは喧嘩しないものだと思っている筈である。北見家の家計は欧米式である。私が生活費としていくばくかの額 を彼女に渡す(そこそこの金額である。手取りでは私の小遣いの3倍はある)。多少金額の張る買い物は全て私が支払うことになっており、時々家族で食事に 行った時はもちろん支払いは私である。だから彼女が何にいくら使い、いくら貯金があるのかは全く知らないし、当然彼女も私の小遣いの使い道や預貯金も一切 知らないし口出しもしない。彼女の最も素晴らしい所は細かな所に拘らない所で、子供達に対しては子離れしていないところも多少は窺えるが、夫に関しては完 全に『自立』している。その恩恵を私はどれほど受けたであろうか。そのおかげで事業に専念出来たし、ある程度『自由』を楽しめているし、他人が思うほど私 はストレスを感じることなく今日までやってこられている。
これらのことはいくら感謝してもし足りない。どこかの節でも記したと思うが、所詮私は『妻・真沙子』というお釈迦様の手の平の上で遊ばれている『孫悟空』 である。私は多分命の尽きるまで『きん斗雲』に乗った北見俊介である。


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