或る二世経営者のホームページ ~香山廣紀 かく挑み、かく歩む。~

或る二世経営者の挑戦


第三部 ~すべてはお客様のために~


第三章 二人の想定外人物

~その一人目~松本氏の場合

当社に藤田という顧問弁護士がいる。彼が法律事務所の開業間もない頃、JC(青年会議所)で出会った。大学の後輩であることから気が合い、それまで顧問を お願いしていた人物に代わって、藤田氏が当社(当時は新光建設)の顧問弁護士になった。20数年前のことである。
ある日彼が、北見さんに紹介したい人物がいる、一度ゴルフでも一緒にどうかと、連絡をしてきた。なかなかある人物と私と藤田氏のスケジュールが合わず延び延びになっていたが、やっと調整がつき小野カントリーで実現した。
私はゴルフ場へは余程のことがない限りスタートの1時間前には行くことにしている。最初のティオフまでにやるべきルーティンワークがある。まずコーヒーを 飲む。それから30~40球前後レンジでボールを打つ。そしてパター練習を行い、その最後に1メートルのまっすぐなラインをカップインして、ティグランド の立つのである。パター練習をしていると、藤田氏が私のそばにやって来て、「北見さん、紹介します。こちらが松本社長です。松本社長、こちらが北見さんで す」と、2人を引き合わせた。私は、「北見です。よろしくお願いします」と軽く頭を下げた。松本氏は「ああ」と言って会釈をした。まさしくそれが運命的な 出会いになった。2004年9月25日土曜日のことである。
一番ティに行くと、藤田氏がそそくさとティアップをする。順番を決めるくじも引かなければじゃんけんもしない。藤田氏は「北見さん、このメンバーでは下手 なものから打つことになっているので」と言った。と言うと次はどちらから打つのかと思っていると、松本氏は悠然としている。どうも私のようだと思い、ティ アップをした。私のショットはまあまあの当りで、230~240ヤードは飛んだと思った。次は彼の番である。持っているクラブはヘッドの大きさからしてス プーン(3番ウッドのこと)かなと、思った。果たして彼の打ったボールは私のボールを遥かにキャリーして飛んで行った。もうそれで勝負ありである。
3番ホールまでくらいは私のことを「北見君」と呼んでいたと思うが、ハーフの終わり頃には「北見」になり、終わり頃には「おまえ」に呼称は変わっていた。 私のことを他人で「おまえ」と呼んだのは彼が初めてだった。それが別段腹立たしく思わないのだから不思議なことである。いやむしろ心地よいとさえ感じてし まうのである。
ワンラウンドが終わり、レストランで軽めの食事を取りながら彼が「北見よ、この間もう少しでエイジシュート(自分の年齢のスコアでラウンドすること)する ところだった」と言うのである。『このオッサン気狂うたん違うか』と思った。私は「おいくつですか今?」と問うと「58歳」だと言う。「といことは、58 で廻ると言うことですが?」と言うと、「そんなことお前に言われんでも分かっとる」と語気を荒めた。結局60だったらしいが、話の流れや周りの様子からし ても本当のことだと窺えた。私はエイジシュートとは、80前後の年寄りが、ゴールドティから打って、しかも何かの間違いで死に土産にするものだと、思って いた。今までベストスコアは59だと言う。私のゴルフの次元には60台は目標としてはあるが50台はない。(因みに私のベストスコアは70である)ゴルフ だけとってみても、まさしく彼は私に於ける『想定外人物』である。
氏はフジプレアム(株)という企業を22年前に創業し、2004年6月にジャスダックに上場。3000円で公募したが、初値は9000円を付け、大いに注 目を浴びたらしい。今流行の液晶テレビ向けの変更フィルムやPDP用光学フィルターの製造販売をメインに、太陽光発電システムも取り入れ、時流に乗った地 元企業である。しかし彼は今が出発点であり、始まったばかりであると言い切るのである。彼との会話の端々から感ずるに、彼の頭の中には世界戦略しかないよ うに思う。読者の皆さん、もし余った資金があれば是非この会社の株を買うことをお勧めする。私もわずかではあるが株主の一人である。そう遠くない日に一部 上場する日が来ると信じている。
ある日、新光建設の営業の幹部が私のところへきて、「社長、フジプレアムの社長と懇意にされていると聞いたのですが、このたび工場を拡幅される計画があ り、我社も是非その入札に入れるよう取り計らってもらえませんか」と言ってきた。私は「しない」と言った。営業幹部は不満そうな顔をして「何故ですか?」 と問いただすように言った。「嫌なものは嫌なのだ」と答えた。私は松本氏とは利害関係は持ちたくなかった。彼とはフィフティフィフティでいたかったのだ。
しかしながら新光建設の現状を考えるとき、私の我侭を言える状態ではなかった。私は早速松本氏にアポイントをとり「私は本当は余り気が進まないのですが、 うちの営業に頼まれたので今日はお願いに来ました。社長とは出来るだけいい関係でいたいと思っていますので。入札にだけ入れてやって下さい、私の顔もあり ますので」と切り出し、誠に失礼な口調でお願いをしたのである。
それから何日かたって、入札の結果新光建設に決まったと、氏から電話があった。当社の現場監督のその後の頑張りでスムーズに工事は運び、大層信頼され、今 現在はフジプレアムの工事は全て我社が特命で頂き、担当させてもらっている。
後から聞いた話だが、フジプレアムはゼネコンの業界では余り歓迎されていなかったのだそうで《単価も工期もきつくて余り儲からないという意味で》、「新光 は大丈夫かいな?」という事になっていたらしい。そんなには利益の上がる仕事ではないが、そこそこ経費位にはなっている。なにせ彼の言葉を借りると「北見 には損はさせられない」のだそうで、まったくもって有り難い話である。どうも彼は私のことを親戚にも近い友人だと思ってくれているようである。私はといえ ば『私の人生に於ける最後の"師"』であると思っている。時々は私の会社にふらっと来るのであるが、秘書は大喜びである。なぜかといえば、現世界において 私を叱り、ぼろ糞に言うのは彼だけで、それを隣の部屋で聞くことが出来るからである。
2005年の2月に私と家内は彼のゲストハウスに招かれ、専属のシェフによる至れり尽くせりのもてなしを受けたのである。こういうことが大嫌いな家内もご 満悦であった。藤田氏夫婦も一緒に招かれたが(彼らはもう数回招かれていた様子だった)、その席上で氏は「純一(藤田氏のことは名前を呼び捨て)、人間の 付き合いは年数やないな、深さやな」と、私に対して最大の賛辞を送ってくれた。そのゲストハウスを近いうちに増築する計画になっているのだが、勿論当社で するように申し付けられている。しかし、この仕事は大変厄介であると思っている。なぜなら、考えられない材質の木が使用されており、しかも想像を絶する工 法が用いられているのである。現代にこのような木造建築が可能なのかと、驚愕するのみである。彼の思い入れの強い正しい芸術作品(彼の書も素晴らしいし、 独創的な絵も高度な水準である)なのである。
どちらかの命が絶えるまで付き合いは続きそうである。私の人生の仕上げに最も相応しい人物に出会えたことを感謝するのみである。

~その二人目~今井先生の場合

この2006年の年末で第19回目を迎えることとなる、ギャラリーの催し物に『チャリティー展』がある。この展覧会は毎年6月に行われる子供の絵画展とと もに、サンホーム兵庫のギャラリー「ルネッサンス・スクエア」を代表するイベントである。言い換えればこの2つのことがしたいがために、私は田舎町の貧乏 会社に『ギャラリー』などを併設したようなものである。
最初の第1回目を迎えるに当り、収益金をどこへどのような形で寄付をしたら最も効果があるか、と考えていたところ、現在は故人となってしまわれたが当時神 戸新聞社で社長室長をしておられて、JC等で知り合いだった『浜渕氏』が『それなら是非北見さん、私の友人がいろいろと苦労をしながら福祉活動をしている ので、そこへ寄付をしてやってほしい』と言われ、約20年が経過してしまったのである。その紹介先が『財団法人兵庫県心身障害児福祉協会』現在の『財団法 人ひょうご子どもと家庭福祉財団』である。そこの理事長が『今井鎮雄氏』なのである。最も『浜渕氏』の友人はその財団の当時は常務理事の『片岡実氏』で、 今井氏ではなかった。
最初の頃は神戸新聞社で寄付金の贈呈式を行っていたが、5回目くらいから財団が運営している施設で行うようになった。『しそう自立の家』とか『はりま自立 の家』とか『はんしん自立の家』や『かるがも園』へ、私とギャラリーのスタッフがお伺いし、寄付金をお持ちするようになった。『はりま自立の家』では、私 や浜渕氏はお伺いするたびに入居者の人達の要望で『経済情勢』や『社会情勢』などについて、小一時間ほどお話をしたものである。因みに『はりま自立の家』 は重度の障害の方が入園されている施設だが、知能のほうは我々以上で株も売買されるし、芸術についてもかなり造詣が深く、いい加減なことを話していると後 でお叱りを受けたこともあった。
2004年の年末のチャリティー展のときに片岡氏から『北見さん、実は来年度から財団の理事になってもらえないか』という依頼があった。3月に2人ばかり 欠員ができるとのことで、私にその白羽の矢が立ったのである。私は、『私のようなものでよかったら』ということで快くお引き受けすることにしたのである。 とりあえず3月に新旧の顔合わせもあるとのことで出席をした。場所は神戸の六甲アイランドにある『神戸ベイシェラトンホテル』である。ずいぶん立派なホテ ルで行うのだなあ、と多少疑問に感じたが、そのホテルは特別にこの財団にというよりは『今井氏』の縁で安く使用できるとのことで理解できた。
会場に入ると、紹介されるまでもなく誰が『今井氏』かすぐわかった。まったくオーラが違う。85歳の青年がそこに存在していた。私の体に電流が流れた。食 事を挟んだ3時間ほどの最初の出会いだったが、なんともいえない清々しさを感じた。このようなまったく『私心』のない人間がこの世にまだ存在するのだ、と いう嬉しさとある種嫉妬さえ覚えた。私が絶対なれそうもないその神のような人間にである。私はこの会合に出席すればこの人に逢える、それは最愛の恋人に会 うという、もう忘れかけていた感情を思い起こさせたのである。
それから1年程して、氏の初めての本が出版されることになり、その記念パーティを行うという案内があった。『初めての書籍』は意外に思えたが、私は喜んで 出席させていただいた。受付で名札を貰ったがそれには一切の肩書きはなく名前だけの名札だった。出席者を見回してみると、文字通り老若男女、あらゆる階層 の人達が実に生き生きと楽しそうにしている様子が窺えた。誰一人として義理とかお付き合いとかで来ている雰囲気は全く感じられなかった。今井氏の人柄は勿 論人生そのものが感じられた。とっても気分のいい記念パーティだった。とかく時間を持て余し気味になり退屈になりがちな会が多いのだが、それは微塵も感じ られなかった。最後まで気分よくその会場に私はいさせて頂いたのである。因みにその出版書籍の題名は『時を刻む』である。その本の最終ページに氏の略歴が 記されているので紹介しておく。

1920年、東京生まれ。旧満州・大連へ転居後中学を終え、同志社大学法学部を卒業。
1946年4月、灘購買組合(現、生活協同組合コープ神戸)勤務。
1948年4月、神戸YMCAへ転じる。
1963年から21年間総主事を務め、現在神戸YMCA顧問、国際ロータリー元理事。長年のYMCA活動を通じて青少年の健全育成や社会福祉に尽力。
1953年に日本で始めての肢体不自由児キャンプを手がけたほか、かぎっ子対策としての学童保育、里親を求める『愛の手運動』や『いのちの電話』開設、 PHD運動など、卓越した行動力で多彩なボランティア活動を続けている。また、教育にも関心が深く、兵庫県教育委員会、県・市社会教育委員、頌栄短期大学 学長などを経て、現在は啓明学院理事長などを務める。
このほか神戸市社会福祉協議会理事長、兵庫県青少年本部理事長など公職を務め、幅広い政策提言を行っている。1981年に兵庫県社会賞、1983年神戸市 文化賞、1993年神戸新聞平和賞、2000年キリスト教功労者表彰ほかを受ける。

今井鎮雄氏もまた私の想定外の人物である


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