或る二世経営者のホームページ ~香山廣紀 かく挑み、かく歩む。~

或る二世経営者の挑戦


第三部 ~すべてはお客様のために~


第三章 合併もまたよし

現在のサンホーム兵庫の前身である新光ロイヤル住宅の設立当初は、代表権のない副社長として、半ばお遊び程度で経営に参画していたが、新光建設の子会社の ひとつである新光工事の実務を担当していた人物が突然行方をくらませていなくなったので、新光ロイヤル住宅を原山専務に任せて、私が新光工事の経営を担当 することになった。27年前のことである。
新光工事という会社は工事専門会社で、新光建設と新光ロイヤル住宅が販売した住宅の全ての施工を、確か請負金額の4%の手数料で行っていたと記憶してい る。その2社からだけの受注量では不足していたので、私と多少営業センスのありそうな人物と2人で小口の受注を行い、量的な面においてはなんとかカバー し、質的には、実行予算をさらに工事予算に組み替えさせ粗利益のアップを図った。また社内的には3ヶ月に一度くらいの割で社員とレクレーションを行い、コ ミュニケーションをとるように心掛けた。更に下職特に大工と親しくなるため、3ヶ月の間妻にお願いをして弁当を作ってもらい、現場で大工と一緒に食べた。 その程度のことで新光工事は見違えるような素晴らしい会社になり、売上では元請会社には及ばないが、利益では倍近い額を上げることができたのである。
しかしながら、私が新光工事という会社と仲良く遊んでいる間に、元請のひとつである新光ロイヤル住宅の経営が倒産寸前になり、私がその建て直しに自らかっ て出たのであるが、そこからこの四方山話、つまり「或る二世経営者の挑戦」第一部~君は父親を越えられるか~が始まり現在に至っているのである。
話を元に戻そう。
私が新光ロイヤル住宅の経営に本格的に取り組むことになったのを契機に、新光工事を休眠することにした。それから3年程経過してから我々(私の父&私&私 の父の大番頭で新光住宅産業の創業社長であり兼務で新光建設の専務でもあった吉田氏)が待ち焦がれていた、当時大手ゼネコン会社で部長職にあった私の妹 婿、即ち父の娘婿の高橋が入社してきた。私達はすぐさま高橋を休眠させていた新光工事の社長と新光建設の副社長に抜擢し、これで新光グループは万全の体制 になったと大喜びをしたのである。新光建設の社長は父で副社長は高橋、それをベテランの原山専務(私が新光ロイヤル住宅の代表取締役副社長に就任したのと 入れ替わりに原山氏は元の新光建設の専務に就任)と社外からは私と吉田氏が補佐し、私は新光ロイヤル住宅の経営を行い、吉田氏は新光住宅産業の社長。当時 田舎町の富山町では誰が見ても磐石の企業であった。しかし既に病原菌は確実に注入されていたのである。おろかな私達は気がつくはずがない。
新光工事が新たにプレカット事業を手がけることとなり、それを機に高橋の発案によって社名も新光工業と変えた。高橋は、九州のどこかの企業と提携を結び 「サパーピア」という大型パネル工法を用いた住宅(結局5~6棟位しか売れなかったが)を考案したり、自分の得意分野である管工事部門を創設したりして、 新光工業は図体だけは大きくなっていた。しかし今回の2003年6月13日事件後、結局私が新光工業も見なければならない羽目になったのである。
有名無実になっていた「サパーピア」には何一つ労力は要らなかったが、管工事部門には5~6人が携わっていた。胡散臭い業者と手を組んで富山町の工事を落 札した物件だけは完成させなければならないので、その担当者だけ残して、それ以外の社員は3ヶ月の猶予期間を設けて全員解雇した。企業経営に携わって初め て私は従業員の首切りを断行した。心苦しかったがこの際背に腹はかえられなかった。
結局プレカット部門だけ残し、新光住宅産業と合併することにした。新光工業の決算月は11月で、新光住宅産業の決算月は10月である。新光工業の定款を変 更し決算を10月に行い、11月1日に新光住宅産業が新光工業を吸収合併する形で発足させた。多少不満はあったようだが、聞こえない振りをして強行した。 この際、新光工業の全ての不良債権を処理し、綺麗な形で嫁がせ、ついでに父の代表権も辞退させた。
今は2006年5月である。その後の新光住宅産業はリフォーム兵庫と共有で姫路の今宿という所に、約500坪余りの土地を購入し、4階建ての立派な社屋を 建て、この4月に盛大に竣工式を挙行した。そしてその機会に社名も新たに株式会社ニューマテリアル兵庫と変え、今までの事業に加え、環境ビジネスやエネル ギー分野にもそのドメインを拡張し、総合商社へと脱皮を謀っている。勿論社長は平田君である。
私は分社戦略を繰り返してきたが、この一連の合併を振り返ってみて、『合併もまたよし』という感である。


■PDFで読む