或る二世経営者のホームページ ~香山廣紀 かく挑み、かく歩む。~

或る二世経営者の挑戦


第三部 ~すべてはお客様のために~


第三章 Xデーそれは6月13日

1ヶ月のうち最もストレスがたまり、しかも全く無駄な時間が「グループ役員会」だった。それほど私は嫌で嫌で仕方がなかった。
主な出席メンバーは、「新光建設とサンホーム兵庫の会長・北見登」(私の父)、「新光建設の社長・高橋」(私の妹婿)、「新光建設のゼネコン担当の常務・ 坂上」(高橋の腰巾着)、「新光建設の住宅担当の常務・山脇」(かつてサンホーム兵庫で集合住宅を担当していて、第二部第三章「真夏の決断」で新光住宅産 業へ私が転籍させ、その後高橋に請われて新光建設の住宅事業部を担当)、「新光住宅産業の社長・家田」(社歴は最も古く、私と一緒に岡山営業所を開設し た。その後新光建設の住宅担当の常務をしていたが、高橋の個人的な好みで山脇と入れ替えるような人事となった)、「サンホーム兵庫の専務・細田」「サン ホーム兵庫の住宅担当の常務・富山」「サンホーム兵庫の管理担当の常務・三木」、そして私だった。
何が嫌だったかと言うと、①先ず本音が出ない、言わない、②高橋の態度がだらしない(ネクタイなど滅多にして来ない)、③会長と高橋がお互いに誉め合いす る(気持ち悪いお世辞の連発)、④数字の朗読だけの会議で議論も提案も決議もない、⑤而して魅力がないため適当に誰かれなしに色々理由をあげ欠席する。
会議の開催場所は、新光建設本社とサンホーム兵庫で交互に行われていた。『その時』はサンホーム兵庫だった。会議が終わると父である会長は私と高橋に「話 があるから」と言って、私の部屋に2人を呼び寄せた。「高橋、今月一杯で新光建設の経営権を北見家に返せ。言いたい事は山程あるかもしれないが、とにかく 返せ。ええか、分かったな」。高橋は「分かりました、そうします」と、意外にもあっさり言い放った。『そう云うこと』と、言い残して父である会長は私の部 屋から去って行った。高橋もそれにつられるようにドアを閉めて私の部屋から出て行った。その間10分足らずの出来事だった。2003年6月13日金曜日 だった。
その日の朝、父は、少し早めにサンホーム兵庫に来て私に、「今日、高橋に言う。その代わりお前が新光の社長をせえ、それが条件だ」と言った。正直私は嫌 だったが、北見家の為、なかんずく創業者である父のため、新光建設の従業員のために、社長を引き受ける決心を短い時間の間に固めた。
遅すぎる父の決断だった。事態は1年前の8月に発覚していた。その2~3ヶ月前頃から、唯一私が知り得るこのグループの役員会に於ける会議資料(B/S・ PLのみ)の内容から私は、新光建設の数字に辻褄の合わないものを感じていた。例えば立替金とか仮出金とか貸付金とか未収入金等々から判断しても、通常の 範囲を超えていた。質問しても適当にはぐらかすし、重ねて尋ねても父である会長が制御してしまうことが度々あり、私も口を閉ざすしかなかった。また、その 1年位前までは総務部長の原田から、かなり詳細な新光建設の資料が毎月私の手元に届いていたのだが、それも途絶えていた。総合的に判断してもどこかに不正 を感じるのはごく自然だった。その頃は私もまだ実態を示せば父も目を覚まし、妹婿である高橋君も心を入れ替えて、少しは新光建設の経営を普通にしてくれる のではないかと、心底思っていた。
総務部長の原田の下に、年齢も入社暦も原田より古い小川と言う課長がいた。私はひそかに小川を呼び出し、《私に協力して欲しい、これは会社のため、従業員 のためにお願いしているのであって、個人的な要素は全くない、骨は必ず拾ってやるから》といって、嫌な密偵みたいな役目を引き受けさせた。誰にも気づかれ ることなく絶対安心な日、と言うことで8月15日、お盆の日に調査をすることにした。その日までに元帳にあるいくつかの勘定科目の帳票を、コンピュータか ら打ち出し準備しておくように依頼しておいた。
調査は午前10時からお昼をはさんで夜の7時頃まで続いた。細かなものまで数え上げれば切りがないから、分かりやすいものだけあげると、《立替金》《仮出 金》《貸付金》らの項目を使って、びっくりするような多額の使途不明金が見つかった。使途不明金は、高橋が7~8年前に自分の小遣い稼ぎになれば位の軽い 気持ちで創設していて、父もその株主に名前を連ねている、有限会社『フロムX』という会社に全て流れていた。だから正式には『使途不明金』にはならないの だが、その『フロムX』から先が全く不明なのである。後で判明したことだが、『フロムX』からの流出先は3ヶ所あり,そのうち2ヶ所の会社は殆ど実態が無 く、『104』で調べても電話番号もない会社だった。また《旅費交通費》《出張費》《交際接待費》と称して、多額の金が湯水のごとくある特定の人物のみに 支払われていた。杜撰さの極めつけは、会社を退職する者から買い付けたのか、はたまた義父である会長から買ったのかは定かではないが、新光建設の株が高橋 名義(私の持分をはるかに超える)で所有されていた。所有するのは悪いとは言っていない。その殆どの代金を会社すなわち新光建設に立て替えさせ、配当金だ けはきっちり彼のところに支払われていたのである。賢明な読者はもうお判りだと思うが、彼は経営者ではなかったのである。彼は新光建設と言う企業を自分の ために利用し、自分が生きていくための道具にしたのである。
私と小川はある程度調べはついたが、果たしてどうしたものかと思案にくれた。まともに高橋に話してもおそらく白を切るか、適当に誤魔化されるのは明らかで あった。彼はそう云う才能には長けていたし、事実頭は私よりはるかに切れるのは分かっている。会長に報告しても我々が調べたことを、決して素直には受け入 れないことも予想できる。当時父である会長は私のことなどあまり評価しておらず、むしろ生意気で文句ばかり言う、煩わしい存在だったと思う。我々は社外監 査役の田辺氏に相談するのが最もいいのでないかと言うことになり、早速連絡を取った。
彼は地元の金融機関の専務理事まで勤め、それだけでなく地域の人々からも信頼が厚く、定年後も請われて富山町の自家用車協会に席を置く傍ら、ボランティア 活動にも広く貢献している。普通新光建設のような同族企業の監査役は、名前だけの監査役が殆どなのだが、田辺氏の監査役は父にしては大ヒットでこれほど適 した人物は、辺りを見渡してもそうそういない。彼は、「これはゆゆしき問題だ、このまま放っておく訳にはいかない、俊介社長!(私のことを多くの人達はこ のように呼んでいた)出来るだけ早く会長に報告し、対策を立てましょう」と、言ってくれた。
少し整理をしてから、1週間くらい経ったであろうか、私と田辺氏とで会長に報告を行った。会長は俄には信じられず、すぐさま身近にいた原田を呼びつけ、問 いただした。原田は「フロムXに流れている金は知っているが、詳しいことは知らない」と言った。「後は会長の判断に任せます」と言って我々2人は退散し た。その後すぐさま私のところへ高橋が来て、弁明ともいい訳ともつかない内容のことを、激しい口調で話した。私も出来るだけ冷静に言い返したが、取り付く 島はなかった。また小川君もそれからは毎日が針の筵だったそうである。今日までよく堪えてくれたと思う。彼には本当に可哀想な事をしたと今でも思ってい る。
9月になって会長から、「私と田辺氏の前で高橋がきちんと説明がしたいと言っている、日時はいついつだ」と連絡があり、新光建設の本社の2階に4人が集 まった。私と高橋は激しく言い争った。私は、特別背任罪はもとより私文書偽造に相当するとも言った。1時間ほど経過した頃であろうか、会長が、「もういい 加減に兄弟喧嘩はやめて、仲良く一緒に助け合って新光グループのために頑張って欲しい。俊介も高橋の足りないところは補って、いろいろ教えてやったらええ じゃないか。そんなに偉そうに言わずに、田辺さんもよろしく頼むわ」と言った。私は愕然とした。父である会長は兄弟喧嘩だという認識か!私は一気にトーン ダウンした。《解りました。貴方(父である会長)がそうおっしゃるならそれでいいです。貴方が作った会社です、潰れようがどうしようが、貴方の好きになさ れたらよろしい。私は私のやり方でサンホームはやります。言っておきますが高橋とは一緒にはやっていけませんから》といって静かに席を立った。私は悲し かったが仕方がない、新光建設が倒産してもその波を最小限に食い止め、サンホーム兵庫に出来る限りその影響を受けないようにする為に、何をなすべきか会議 室を後にしながら思考を巡らせた。
その後田辺氏とは何回かは会って今後のことについて話し合い、田辺氏が在籍していた地元の金融機関の理事長からも父に話してもらったりしたが、結局どうにもならなかった。我々は静観するしかなかった。
私は、新光建設が仮に倒産してもその波を出来るだけサンホームグループが被らないようにするため、先ず父の名義になっているサンホーム兵庫の建物を父から 買い取ることにした。その建物を建てた当時は父に良かれと思い、1円の自己資金を使わせることなく全額借り入れをさせ、その返済分以上に少々高めに家賃を 支払うように配慮していたのである。もし新光建設が倒産したら、父は個人保証をしていた(高橋は一切していない)ので、このビルも当然債務の対象となり、 我々は行き場を失ってしまうことになるからである。次にこの建物が建っている敷地の所有は新光建設名義になっていたのでこれも買い取ることにした。建物は 減価償却の残存価格で、土地は路線価でそれぞれ買い取った。いずれも高い買い物だった。欲に目が眩んだ2人は、私の言葉巧みな誘いに直ぐ乗った。私の裏の 狙い、すなわち新光グループからの離脱戦略などと夢にも思っていなかったのである。私は固定資産のない企業を実は目指していたのである。あの阪神大震災後 特に固定資産など無意味だということを強く認識するようになった。それがこんな馬鹿げたことで余分な資金を使い、全く意味のない固定資産など持ちたくはな かった。私の意思とは全くかけ離れていたが仕方がない、社員を守るために当時は業績も低迷していたが断行したのである。
2002年の8月に我々が不正を知るところになってから、父である会長が決断するまでの約10ヶ月の間も、新光建設から「フロムX」に毎月運転資金と推察 される幾ばくかの資金が流れ続けた。私は「兄弟喧嘩」という認識をしている父に対して、見てみぬ振りをするしかなかった。
2003年の5月頃だったと記憶している。あれから針の筵に座りつづけていた小川から私に連絡が入った。「どうも妙なことがあったのです。3月頃だったと 思うのですが、原田が集金してきたお金が一晩のうちに消えたことがあったのです。記憶では当社の金庫に入れたと思うのですが、次の朝には何処かへ行ってし まったと思うのです。額は《○千万》位でした」と言うのである。
私はもうどうでもよくなっていたが、耳に入った以上は放っても置けないので会長に、「こうこうこうらしい。調べられた方が良いと思います。僕にはその権利 もないし、あなたの言うことしか聞かないでしょう」と言った。会長は早速原田に問いただしたらしいが、原田は坂上常務に渡したと言い、坂上は口を汚しなが ら、高橋に渡したと言ったらしい。その先会長は高橋に問いただすことはどうやらなかったらしい。だから今もその件ついては闇である。
2002年の11月に行われた新光建設の株主総会で田辺氏は、「今年度の決算に於ける貸借対照表ならびに損益計算表等に関して正当とは認められない」と言 う前代未聞の監査報告をしたにもかかわらず、私以外の当時の役員達は株主総会を乗り切ってしまったのである。大株主である会長が「意義なし」なのだから仕 方がなかった。私は完全に諦めていたが、それでも監査役の田辺氏は粘り強く、事ある毎に会長に苦言を呈していたらしい。
田辺氏の粘り強い説得と、一晩のうちに何千万かの金が消えたことをきっかけに、僅かではあるが会長の気持ちに変化が芽生え、それが2003年の6月13日 の「北見家に経営権を返せ」に至ったと思われる。《社長の兼務は出来ない》《それほど企業経営は甘くない》と言うのが私の持論だった。しかし来る7月1日 からはその持論を曲げなければならない。私には何一つ勝算はなかった。不安だらけで兎に角踏み出すしかなかった。
《賽は投げられた》のである。

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