或る二世経営者のホームページ ~香山廣紀 かく挑み、かく歩む。~

或る二世経営者の挑戦


第三部 ~すべてはお客様のために~


第二章 悲しい別れ ② 母の場合

2003年の秋も深まった夜の9時半頃だったと思う。父からの電話で、直ぐ自宅まで来るように、とのことだった。私と家内はパジャマの上にカーディガンを 羽織ってとりあえず行ってみると、母親が階段から落ち、回り階段の中段の上に仰向けになって倒れていた。直ぐに救急車を呼び町内の病院に運ばれ、入院する ことになった。そのことがそもそものきっかけで気弱になり、2004年の5月23日に帰らぬ身となってしまった。
私と母との思い出を辿ってみても、あまり楽しいものは見当たらない。勿論家族旅行をしたという記憶もない。ただ1枚だけ残っている写真から想像すると、ふ た家族一緒に洲本に行った様子である。それから定かではないが、私が小学生の頃だと思うが、『源氏物語』を観るために近くの映画館へ連れて行かれたことが ある。光源氏には市川雷蔵が扮していたと思うが、多分家族、特に姑の手前、私は出汁に使われたのであろうが、何か秘密めいた母との想い出である。
私が小学校に上がる前に、私と母は2人とも結核を患い、8ヶ月に渡って入院をしたことがある。おまけにそこで私は、今で言うなら院内感染だったと思うが、 脳脊髄膜炎にかかり生死を彷徨ったのである。「多分助からないと思うが、助かっても脳障害は残る」と医者に宣告されたのである。その当時の医学からすると 本当に奇跡的に、私はこの世に蘇った。その裏で母の手厚い看護があったのは言うまでもないことである。
私が高校に入学する頃に母は眼を患い、隣町の眼科に入院した。それが眼病との最初の出会いだった。その頃まで実に母はよく働いた。昼間は父と母の兄が始め た製材所で職工として働き、夜は家事の傍ら内職をし、製材所が休みの日は姑と農業に従事する毎日だった。父が新光建設を創立してからも、一時期食堂の椅子 のラバー貼りの家内工業を、実家の納屋で行っていた。会社が少し軌道に乗りかけた頃には内職もやめ、暇なときは社屋の草むしりなどをしていた。一方眼の病 の方は日を追って悪くなり、いよいよ神戸の病院で手術をすることになった。手術の経過は大変よく退院することになった。その日父の都合が悪いとのことで、 私が迎えに行った。丁度桜の季節だった。新神戸駅前辺りに咲いている桜の花を見て、母は『桜がきれい、桜がきれい』と何度も何度も繰り返し私に言った。私 はいつもとそれほど変わらないのに、と不思議に思ったが、よく考えてみると手術前はぼんやりとしか見えていなかったことに気がつき、私は目頭を押さえたこ とを今でも覚えている。私達には当り前の桜も、母にとっては久しぶりに観る美しさだったのである。
階段からの転倒で骨折したアバラの骨も治り、娘婿の事件も一段落したこともあって、2004年の3月に退院をした。その後はお手伝いさんに助けられながら も近所周りを歩けるまでに回復していた。しかし、5月の連休に実の兄を突然亡くし、気丈にも冷たい雨の降る中告別式に参列したこともあり肺炎を患い、それ がもとで逝ってしまった。76歳だった。
亡くなる一週間前に父を呼び、もう長くない事を告げ、覚悟をしておくように言った。父は『そうか、無理か』と寂しそうに呟いた。5月23日午後11時頃に 母は静かに息を引き取った。父に『どんな葬式が望みか?』と尋ねると、出来るだけ賑やかにしたいと言った。その希望通り私は西播磨で最も大きくて賑やかな お葬式を執り行った。どれくらいの規模であったかを示すと、インターチェンジから式場まで車で5分のところ30分以上かかったそうである。実に迷惑な話で ある。私自身は『いい葬式』をして欲しい、と願っている。
私は母が亡くなってからの様々な手続きを済まし、亡骸が自宅に帰ってきて一段落をしたが眠れそうもなかった。世が明けてからの煩雑さが予想されたので、私 の時間は今しかないと思いお写経をした。勿論母の棺の中に収めるためである。
私は通夜の席で母との辛い思い出や桜の花のことをお話しした。私はその話をしながら初めて涙を流した。母の死が現実のものになった。もう少し贅沢をしても 良かったのに。もう少し長生きをして欲しかった。そして、私のこれからの10年を見守って欲しかった。私はもう少し頑張ります、そして父を見送ってからそ ちらに行きます、それまで待っていて下さい、では・・・。

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